導入:なぜ今「暗黙知の捉え方」を見直すべきなのか
ベテランの「勘」や「コツ」をマニュアルにしようとしたのに、現場でうまく機能しなかった。こうした経験は医療、保育、接客、製造など多くの職場で見られます。原因の一つは、暗黙知を「まだ書かれていない情報」とだけ捉えていることにあるのかもしれません。
本記事では、暗黙知を身体・感情・関係性・制度運用の4層が結びつく中で発揮される実践知として捉え直す「EERIモデル」を紹介します。理論的な背景、4層それぞれの意味、国内外の事例、評価の方法、そして現場への応用と注意点を順に見ていきます。

暗黙知の基本:「言えない情報」ではなく「実践の中の知」
ポランニーと野中理論が示したこと
暗黙知の議論はポランニーに始まり、「人は語れる以上のことを知っている」という問題提起から広がりました。その後、野中郁次郎らの知識創造理論(SECIモデル)は、暗黙知と形式知が共同化・表出化・連結化・内面化を通じて循環するプロセスとして、組織の知識創造を説明しました。
ただし、表出化によって書かれたものは、実践そのものではなく**実践の「代理表象」**にとどまります。この点を押さえておくことが、暗黙知を扱ううえでの出発点になります。
「弱い暗黙性」と「強い暗黙性」の違い
暗黙知には、少なくとも二つの種類があると考えられます。
- 弱い暗黙性:普段は語られないが、問いかけや映像の振り返りによって、ある程度は言葉にできる知
- 強い暗黙性:共同体に参加し、身体を使い、他者とやり取りする中でしか機能しない知
後者は文章にしても十分には伝わりにくいため、「すべてをマニュアル化する」方針には限界がある可能性があります。
EERIモデルとは?暗黙知を4つの層で捉える
EERI(Embodied–Emotional–Relational–Institutional)モデルは、既存の確立した理論ではなく、先行研究を統合して提案された研究フレームです。中心となる考え方は、暗黙知は特定の一層にあるのではなく、4層を状況に応じて結びつける「結合の仕方」に宿るというものです。
身体性層:視線・間合い・タイミング
どこを見るか、いつ動くか、「なんとなく危ない」と感じる知覚と行為の結びつきです。日本の身体知研究では、体験を言葉にする「メタ認知的言語化」が、知識を写し取るというより注意の向け方を組み替え、熟達を促す介入として働くと論じられてきました。また、道具や空間の配置といった環境との関係も、この層に含まれます。
感情層:違和感・覚悟・共感
感情は判断を乱すノイズではなく、何を重要と感じるかを方向づける構成要素と考えられます。ただし、表情や心拍などから感情を一つに決めつけるのではなく、本人の語りや状況と組み合わせて読み取る姿勢が求められます。
関係性層:信頼・役割・相互調整
レイヴとウェンガーの状況的学習論が示すように、学びは実践共同体への参加の過程として成り立ちます。「誰が何を知っているか」よりも、誰と誰のあいだで、どのような信頼や役割のもとで知が機能するかに注目する層です。
制度運用層:規則を「働かせる」知
マニュアルに書かれた規則と、現場で実際に動いている制度は同じではありません。リプスキーのストリートレベル官僚制論は、教師や福祉職などの現場職員の裁量が政策の実態を形づくることを示しました。この層では、規則の解釈、例外処理、エスカレーションといった運用の知を扱います。
4層は「循環」している
4層は上下に独立した階層ではありません。制度が感情表出や役割を規定し、関係性が身体の距離や声の調子を変え、身体的な違和感が制度上の報告を引き起こし、現場の工夫がやがてローカルルールになる。この循環構造がモデルの核心です。
事例で見る多層的暗黙知:医療・保育・接客・複雑組織
訪問看護とICU:判断は医学知識だけで決まらない
熟練訪問看護師10名への質的研究では、がん終末期の看取り支援における実践知として、「この人の場合」を見極める思考や、患者・家族への寄り添い、看取りへの覚悟などが見いだされました。身体状態の観察に、感情・関係・在宅という制度条件が重なって判断が成り立っていることがうかがえます。
ICU看護師への研究では、緊急入室前の限られた情報から病態や治療の方向を予測し、必要な物品と配置まで先回りして準備していたことが報告されています。知覚・予測・空間配置・チーム医療が素早く結びついた例といえます。
保育:知は「人と物の配置」に分散している
幼稚園3園のビデオ研究では、身支度のための環境が効率的な行為を促す一方で、遊びなど別の行為も引き出していました。初任保育者への研究では、子ども理解のつまずきが、その子との二者関係や集団、初任期特有の要因など複数の要素から生じていたことが示されています。
客室乗務員:感情が制度に組み込まれるとき
ホックシールドの『管理される心』は、客室乗務員などを例に、企業が感情の表し方そのものを職務として求め得ることを「感情労働」として論じました。個人の感情に見えるものが、企業制度から身体表現、顧客との関係へと連鎖して形づくられることを示す事例です。
フィンランドのコアタスク分析:個人からシステムへ
高度医療や大型船の運航などを対象とするコアタスク分析では、成功や安全を個人の行為だけでは説明できず、分業や連携、日常的な確認行為まで含めて捉える必要があるとされています。
暗黙知をどう評価・検証するか
「ずれ」から暗黙性を測る
暗黙知を直接取り出そうとするより、次の4つのギャップを観察するほうが方法として妥当だと考えられます。
- 遂行―説明ギャップ:正確にできることと、説明できることの差
- 説明―規則ギャップ:本人の説明とマニュアルの内容の差
- 文脈依存ギャップ:場所・人・道具が変わったときの遂行の変化
- 転移ギャップ:文章だけで学んだ人と、共同実践で学んだ人の差
段階的にモデルを比較する
明示的な情報(マニュアル、経験年数など)だけのモデルに、身体・感情・関係・制度の情報を順に加え、説明力がどう変わるかを検証する方法が考えられます。ただし、ここで得られる差は「暗黙知の量」ではなく、形式的な情報では捉えきれなかった実践情報の寄与と控えめに解釈するのが適切です。成功例だけでなく失敗例や反例、熟達者と初心者の比較を組み合わせることも欠かせません。
現場で活かすためのポイントと注意点
インタビューだけに頼らない
回顧的な語りだけでは、実際の動きや相互作用を十分に再現できない可能性があります。実践映像・音声・事後の語り・制度文書・結果データを組み合わせるのが基本です。映像の特定場面を示して「このとき何を見ていたか」「なぜこの人に相談したか」と尋ねると、4層のつながりを再構成しやすくなります。
「正解手順」ではなく「判断の条件」を残す
可視化すべきなのは唯一の正しい手順ではなく、熟達者がどの手がかりに注目し、いつ違和感を持ち、誰に相談し、手順のどこをなぜ変えたかという判断条件付きのエピソードです。
監視・人事評価への転用を避ける
接客の場面で「優秀な人の笑顔や声」を標準化すれば、感情管理の強化につながるおそれがあります。また、ワークアラウンドを一律に「違反」と見なさず、危険な逸脱、制度の欠陥を補う適応、必要な裁量、不要になった慣行を区別することが重要です。映像や感情などセンシティブなデータを扱う際は、最新の法令や研究倫理指針を確認し、「暗黙知スコア」を人事評価に直結させない配慮が求められます。
まとめ:暗黙性を残したまま、学び合える形にする
暗黙知は個人が隠し持つ情報ではなく、身体・感情・関係性・制度運用が結びつく中で発揮される実践知と捉えられます。EERIモデルが目指すのは暗黙知の完全なデータ化ではなく、何が文書化でき、何が映像で伝わり、何が共同参加を必要とし、どこに裁量が欠かせないのかを見分けることです。
なお、このモデルは既存研究の統合から生まれた検証可能な枠組みであり、一次データによる実証はこれからの課題です。今後は、マニュアル・語り・映像・共同実践を段階的に加えて初心者の判断がどう変わるかを比べる実験や、生成AIを「暗黙知を獲得する存在」ではなく「人が残した表象を検索・比較する道具」として位置づける研究が、重要なテーマになると考えられます。
コメント