なぜいま「自然主義的認識論」を問い直すのか
認識論は長らく、「私たちはどうすれば知ることができるのか」という規範的問いを、純粋な概念分析や先験的推論によって解こうとしてきた。しかし20世紀後半、W・V・O・クワインがその前提そのものを問いに付した。科学と哲学を截然と区別し、哲学が科学の「基礎」を与えるという第一哲学の構想は、もはや成り立たないのではないか、と。
この問いかけは、認識論を自然科学の一部として再定位する「自然主義的認識論」という広大な研究プログラムへと発展した。そのプログラムは現在、信頼性主義・知識自然種論・社会認識論・科学的認識論という複数の路線に分岐しながら、哲学・認知科学・社会科学・AI研究の境界領域で活発に議論されている。
本稿では、Quine の転回を出発点に、Alvin I. Goldman と Hilary Kornblith の理論的差異を軸として、2000年代以降の展開と未解決の論点を体系的に整理する。

クワインの転回:第一哲学の拒否と認識論の「自然化」
合理的再構成の挫折
クワインが1969年の論文「Epistemology Naturalized」で提示した診断は、哲学史的に見ても鮮明なものだった。伝統的認識論の核心課題、すなわち「観察データから科学理論をどのように合理的に基礎づけるか」という問いへの答えを、論理実証主義やカルナップ的な合理的再構成のプログラムはついに与えられなかった、という診断である。
フンボルト的な意味でのすべての知識は観察によって検証されるという要請は理念として明快だが、実際に観察文から理論言明へ論理的に橋を架けることは不可能に近い。クワインはこの「翻訳の不確定性」と「理論の過少決定」という問題を指摘しながら、認識論を先験的・規範的な学問として維持することをあきらめ、実際の認知過程を経験的に研究する方向に転換せよと論じた。彼の言葉を借りれば、「認識論は心理学の一章、ひいては自然科学の一章に収まる」。
この転回が示唆するのは、認識論が自然科学を「含もうとした」のに対して、自然化された認識論は自然科学の「内部に含まれる」という立場の逆転である。哲学は科学の土台を提供するのではなく、科学の問いのひとつとして再定位される。
置換的自然主義の射程と限界
ただし、クワインの立場はしばしば「置換的自然主義」と呼ばれる。認識論を科学に「置き換える」という読みである。この読みには批判も多い。最も鋭い批判は、「規範性の消去」という問題だ。認識論が「どのように信じるべきか」を問う規範的学問であるとすれば、「実際にどのように信じているか」を記述する心理学にそれを置き換えることは、問いそのものを消してしまうのではないか。
クワイン自身はこの批判を意識し、後年には規範的認識論を捨てるのではなく「工学」として理解し直すという方向を示した。真理ないし予測を最終目標とし、そこに向けて認知過程を改善する技術として認識論を捉える、という立場である。しかしこの再定式化が十分かどうかは、なお議論が続いている。
Philip Kitcher は1992年の論文「The Naturalists Return」でこの問題を整理し、「根底的自然主義」(規範性を完全に放棄する立場)と「反自然主義」(科学的知見を認識論から切り離す立場)の両極を批判しながら、規範性を保持したまま科学との連続性を認める「伝統的自然主義」の中間地帯を切り開いた。Kitcher のこの整理は、Goldman や Kornblith の路線を生み出す理論的土壌を準備した点で重要な媒介点となっている。
Goldman の信頼性主義:穏健な自然主義と外在主義的正当化論
プロセス信頼性主義の基本定式
Alvin I. Goldman が1979年に発表した論文「What Is Justified Belief?」は、自然主義的認識論の展開において決定的な一歩であった。Gettier 問題以後、「正当化」をどのように定義するかをめぐって議論が続くなか、Goldman は「信念の正当化は、その信念を産み出したプロセスの信頼性によって説明される」という信頼性主義(Reliabilism)の基本定式を提示した。
正当化の条件を、信念者の内部状態(証拠・推論・直観)ではなく、外部の因果プロセスの特性(信頼性)に置くこの立場は、認識論における外在主義の代表的立場となった。信頼的プロセス、すなわち高い確率で真なる信念を産出するプロセス(知覚、記憶、正確な推論など)によって生み出された信念が正当化されており、信頼的でないプロセス(思い込み、誤推論、偽りの証言など)によって生み出された信念は正当化されない、という見取り図は明快である。
1986年の著作『Epistemology and Cognition』では、このプロセス信頼性主義に認知科学が接続された。どのプロセスが実際に高い信頼性を持つのかを明らかにするのは認知科学・心理学の仕事であり、哲学はその結果を受け取りながら正当化の評価枠組みを構築する、という分業が示された。これが Goldman の「穏健な自然主義」の基本構造であり、概念分析と科学的探究を対立させるのではなく、二段階で協働させるという設計である。
社会的・制度的文脈への拡張
1999年の著作『Knowledge in a Social World』において、Goldman の関心は個人の信念形成プロセスから社会的・制度的レベルへと拡大した。教育・法廷・民主制・メディアなどの社会的実践が、いかに人々の真なる信念を増進するか(あるいは阻害するか)を評価する「ベリティスティック社会認識論」(veritistic social epistemology)が提唱された。
2014年の論文「Social Process Reliabilism」では、集団の信念の正当化を、メンバー個人の信念と集計関数の条件付き信頼性から説明するモデルが示された。多数決のような集計プロセスが真なる集団的信念を導く条件とは何かという問いは、Condorcet の陪審定理とも連絡しながら、社会認識論の中心的トピックに成長している。
信頼性主義に対する主要批判
Goldman の信頼性主義には様々な反例と批判が向けられてきた。clairvoyance 問題(透視能力者が信頼的に真なる信念を得るとしても直観的に正当化されていない)、new evil demon 問題(認知的に我々と同等でも悪霊に欺かれた存在の信念は不正当化なのか)、そして一般性問題(どの粒度のプロセスタイプを評価単位とするのかが決定不能である)が代表的な批判である。
これらに対して、normality reliabilism(正常条件下での信頼性で評価する)、approved-list reliabilism、credence reliabilism(確率的信念への拡張)など、精密化された応答が次々と提示されてきた。一般性問題と評価単位の問題は現在もなお完全には解決されていないが、信頼性主義は単純な「高真理率説」から、認識環境・プロセスタイプ・認識主体の単位をめぐる洗練された研究プログラムへと成熟している。
Kornblith の科学的認識論:知識は「概念」ではなく「現象」である
知識自然種論の核心
Hilary Kornblith の立場は、Goldman との共通点を持ちながら、その出発点において根本的に異なる。Kornblith が問うのは、「認識論は何を研究対象にすべきか」という問いそのものである。
Goldman が「正当化」「知識」という認識論的概念を第一段階の分析対象としたのに対して、Kornblith は、認識論の対象は「知識概念」ではなく「知識そのもの」でなければならないと論じた。2002年の著作『Knowledge and Its Place in Nature』でこの立場は明確化される。知識は金や水と同様に自然現象であり、それが属するカテゴリーは「自然種」である。したがって認識論の正しい方法は、知識という現象を経験的に、つまり動物行動学・認知科学・科学の成功の分析を通じて研究することだ、というのである。
この「知識自然種論」の主要な含意は、認識論的直観の権威への懐疑にある。Gettier 問題のような反例分析、すなわち「この事例では知識があると思うか」という直観ポンピングのプロセスは、Kornblith にとって認識論の正当な方法ではない。直観は概念の反映にすぎず、概念が現象をとらえ損ねている可能性がある以上、直観への訴えは現象そのものの理解を保証しない。
反省・内在主義への再批判と科学的認識論
2019年の著作『Second Thoughts and the Epistemological Enterprise』では、Kornblith は内在主義的伝統への批判をさらに深める。認識者自身の反省的アクセスや熟慮を認識論的に特権化する立場に対して、動物や無意識の認知過程でも知識が成立しうるという観点から、反省の特権的地位を弱める議論が展開される。
2021-22年の著作『Scientific Epistemology』では、懐疑論への応答を概念分析によって与えようとするのではなく、知覚・推論・認知過程がいかに実際に知識を可能にしているのかを認知科学によって解明するアプローチが前景化される。科学の成功・帰納推論の有効性・環境への適応という三点が、知識の自然種的基盤として再記述される。
Quine・Goldman・Kornblith の三者比較:置換・協働・対象転換
三つの軸での差異
Quine、Goldman、Kornblith の立場の差異は、少なくとも三つの軸で整理できる。
第一に、認識論を科学に置き換えるのか、それとも協働させるのか。Quine は置換に最も近く、Goldman は二段階の協働モデルを採り、Kornblith は対象そのものを経験的研究の対象に転換する。
第二に、分析対象を「知識概念」に置くのか、「知識という現象」に置くのか。Goldman が正当化・知識の概念分析を第一段階に置くのに対して、Kornblith は概念ではなく現象へ直接向かうべきだと主張する。
第三に、規範性をどのように根拠づけるのか。Quine は「工学」として、Goldman は信頼性と認識論的な民俗的評価概念(epistemic folkways)から、Kornblith は「知識が追求に値する自然現象である」という事実から規範性を再定位しようとする。
Goldman と Kornblith の隠れた相違
Goldman と Kornblith はともに真理志向的・外在主義的とされるが、方法論の入口で鋭く対立している。Goldman は少なくとも1980年代には、認識論的直観と概念分析を第一段階に位置づけ、心理学・認知科学はその後段で補助的役割を担うとしていた。Kornblith はこの順序を逆転させる。直観は経験的発見に照らして修正されるものであって、認識論の出発点であってはならない。この点で、Quine→Goldman→Kornblith は直線的な「強度の増加」ではなく、それぞれが異なる操作(置換・協働・対象転換)を採る複数の路線として読まれるべきである。
2000年代以降の展開:精密化・拡張・応用
信頼性主義の精密化
2000年代以降、信頼性主義は反例への応答を通じて精密化された。normality reliabilism は「正常条件下での信頼性」という概念を導入することで悪霊問題などへの応答資源を提供し、credence reliabilism は確率的信念を評価対象に拡張した。evidentialist reliabilism は証拠主義との統合を試みることで、内在主義的直観を部分的に取り込む方向を模索している。信頼性主義はもはや単一の理論ではなく、プロセスタイプ・認識環境・認識主体の単位をめぐる洗練された研究プログラムの総体となっている。
社会認識論のフロンティア
Goldman の社会認識論的転回以降、証言・専門家判断・認知的多様性・民主制・オンライン誤情報が自然主義的認識論の主要フロンティアとして浮上した。誰の証言を信頼すべきか、専門家のコンセンサスはどのような条件で従うべき権威を持つか、認知的多様性は集団探究をどのように改善するか、SNS 上の誤情報はどのように真なる信念の形成を阻害するかという問いは、認識論を「個人の信念形成プロセス」から「知識を生み出す制度設計」へと射程を広げた。
日本語圏の動向
日本語圏でも、麻生尚志(2019年)の博士論文が Quine から Kornblith までの体系的整理を、青木滋之(2006年)が Kornblith の知識自然種論の詳細な再構成を、飯塚舜(2020年)が Goldman の集団的正当化論の批判的検討を与えている。また藤原良介(2020年)は、自然主義的認識論における認知モデル選択が単一モデルへの還元ではなく方法論的多元主義によって扱われるべきだと論じており、認識論を「心理学への委譲」と同一視しない方向性を提唱している。
まとめ:複数路線の総体としての自然主義的認識論
クワイン以後の自然主義的認識論は、一枚岩の「認識論の科学化」運動ではない。それは、置換的自然主義(Quine)・穏健な協働的自然主義(Goldman)・対象転換としての科学的認識論(Kornblith)・進化的・適切機能論的自然主義・社会的自然主義が相互に競合・補完しながら形成された複数路線の総体である。
「自然主義的認識論」とは、ひとつの結論ではなく、科学と認識論の連続性をどのレベルで、どの強さで、どの対象に対して主張するかをめぐる研究プログラム群の名前だと理解するのが最も正確だろう。規範性の根拠、知識自然種論の妥当性、反省と第三者的科学記述の統合、集団的正当化の条件、そして認知科学・AI・行動科学の方法論的配分はいずれも未解決の論点として残っており、哲学と経験科学の境界で活発な研究が続いている。
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