導入:なぜ「抽象語の感覚性」を測る研究が重要なのか
「りんご」と聞けば赤さや甘い香りを思い浮かべやすい一方、「正義」や「自由」といった語には、そうした感覚的な手がかりがほとんどないように感じられます。しかし、「不安」や「痛み」のように抽象的でありながら、胸の締めつけや緊張感といった身体感覚を伴う語も存在します。この違いを定量的に扱えるようになれば、言語モデルがどこまで人間の意味理解に近づいているのか、逆にどこで感覚情報に基づくモデルに劣るのかを明らかにする手がかりになります。本記事では、日本語語彙を対象に「抽象度」と「感覚的痕跡」を独立に測定し、言語モデルと感覚モデルの性能が入れ替わる境界を推定しようとする研究デザインを紹介します。研究の背景、方法論、想定される結果、今後の課題までを順に見ていきます。
抽象語と感覚情報をめぐるこれまでの知見
日本語には、オノマトペを含む語について視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚・内受容感覚という六つのモダリティで感覚の強さを評価した既存の規準があります。この先行研究では、視覚情報が優位に働きやすいこと、嗅覚の情報が相対的に弱いこと、そして日本語のオノマトペが複数の感覚にまたがる性質を持つことなどが報告されています。また、日本語の語彙全体において、身体内部の感覚(内受容感覚)に関する情報が比較的強く残っている可能性も示唆されています。
一方、英語圏では数万規模の語を対象に、六感覚と身体動作に関する次元で評価した大規模な感覚意味規準が存在し、感覚情報を大規模に収集すること自体の実現可能性が示されています。ただし、これらの先行研究だけでは、品詞や頻度、語の多義性といった要因を統制しながら、「どの程度抽象的になると言語モデルが感覚モデルを上回るのか」という交差点を安定して推定するには、対象語数がまだ十分とは言えない状況です。今回紹介する研究は、こうした既存の知見を踏まえつつ、抽象語に残る「期待以上の感覚性」を独自の指標として取り出そうとする点に特徴があります。
研究の核心:抽象度・感覚強度・感覚的痕跡を分けて測る
この研究が重視しているのは、「抽象語には感覚情報が少ない」という単純な前提を疑うことです。そのために、次の三つの概念を明確に区別しています。
まず「抽象度」は、具体的な対象や出来事をどれだけ直接的に指し示せるか、あるいは言語的な定義や関係性の説明にどれだけ依存するかを表す概念です。次に「感覚表現強度」は、その語の意味を理解・想起する際に、視覚や聴覚、内受容感覚などをどの程度強く利用できるかを示します。そして三つ目の「感覚的痕跡」は、同じ程度の抽象度・頻度・品詞・多義性を持つ語の平均と比べて、その語がどれだけ感覚的にずれているかという「残差」として定義されます。たとえば「正義」と「不安」が同程度に抽象的だと評価されたとしても、「不安」には身体的な感覚が伴いやすいため、この残差の値が高くなると予測されます。
重要な設計上の工夫として、抽象度を評価する参加者と、六感覚の強さを評価する参加者を意図的に分ける点が挙げられます。同一の参加者・同一の質問文で両方を測定してしまうと、抽象度を「感覚の弱さ」として定義してしまうことになり、本来検証したいはずの両者の関係を、質問文の作り方自体が先取りしてしまう恐れがあるためです。
語彙選定とデータ収集の設計
研究では、名詞・動詞・形容詞・形容動詞・オノマトペや副詞を対象に、頻度、抽象度、語種、語長、多義性などの観点から層化した語彙リストを構築する計画が示されています。頻度情報は、現代日本語の書き言葉を幅広くカバーする大規模コーパスを中心に用い、会話的な表現や感情語の頻度を見落とさないよう、話し言葉のコーパスも補助的に併用する方針です。
語彙数については、まず数百語規模の予備調査で尺度の妥当性や所要時間、未知語の割合などを確認したうえで、本調査として数千語規模のデータを収集するという二段階の設計が採用されています。抽象度は七段階程度の評定尺度で、六感覚の強さはそれぞれ数段階の尺度で評価し、親密度や多義性の認識、回答の確信度なども合わせて収集することで、語ごとの評定値の信頼性を高める工夫がなされています。
また、「重い」「透明」「響く」のように、物理的な意味と比喩的な意味の両方を持つ語については、単独で提示する条件と、短い例文とともに文脈を与えて特定の語義を示す条件を分けて評価する設計になっています。これにより、物理的語義と比喩的語義の評定が単純に平均化されてしまうことを防ぐ狙いがあります。
モデル比較の考え方:「言語」対「感覚」をどう定義するか
この研究のもう一つの重要なポイントは、比較対象となるモデルを単純に「言語モデル」と「感覚モデル」の二種類に分けない点です。画像と言葉を結びつけて学習するモデルや、音声・映像を言語中心の空間に統合するモデルなどは、感覚情報だけでなく言語情報も同時に学習しているため、純粋な「感覚モデル」として扱うべきではないと位置づけられています。
そこで研究では、画像や音声、触覚刺激から直接得られる感覚エンコーダ側の表現と、人手による六感覚の評定値を「感覚側の基準」とし、画像や音声を言語と結びつけて学習したモデルのテキスト部分は、別枠の「言語媒介型マルチモーダル条件」として区別して扱う方針を採っています。こうすることで、感覚モデルが実は言語情報を介して高い性能を出しているだけなのか、それとも純粋に感覚的な情報から意味を捉えられているのかを、より正確に切り分けられるようにしています。
主要な評価課題としては、語同士の意味的な近さを予測する類似度予測課題が中心に据えられ、分類課題や、語から感覚的な特徴を生成させる課題、画像・音声の検索課題なども副次的な評価として組み合わされます。
交差点の推定:どの抽象度で優劣が入れ替わるのか
この研究で最も重要な分析は、言語モデルと感覚モデルの性能差を、語の抽象度に対してプロットしたときに、その差がゼロになる「交差点」を推定することです。低い抽象度では感覚モデルが優位に働き、高い抽象度になるにつれて言語モデルが優位になっていくという緩やかな移行が生じると考えられていますが、研究ではこれを単一の直線的な境界として捉えるのではなく、非線形な曲線として柔軟に検証する設計になっています。
さらに重要なのは、この境界が語のタイプによって大きく異なる可能性がある、という予測です。物理的な対象や外界の知覚に関わる語では、感覚モデルの優位性が比較的高い抽象度まで続く一方、制度や論理、社会的な関係を表す語では、より早い段階で言語モデルが優位になると考えられています。また、感情や身体感覚に関わる語、そして日本語のオノマトペのような語は、抽象度が高くても内受容感覚や聴覚的な痕跡が残りやすく、単純な右肩上がり・右肩下がりのパターンから外れる可能性が指摘されています。つまり、この研究が目指しているのは「一つの魔法の数字」を求めることではなく、語のタイプや評価課題ごとに異なる複数の境界線を、信頼区間とともに描き出すことだと言えます。
想定される成果と今後への意義
この研究デザインが実現すれば、抽象概念のなかにも、身体的・感情的な感覚の痕跡が色濃く残る語群と、言語的・関係的な情報にほぼ依存する語群とが存在することが、定量的な形で示される可能性があります。これは、抽象概念を一枚岩のカテゴリーとして扱うのではなく、社会性や感情、内受容感覚、規範といった異なる下位のタイプに分けて理解しようとする近年の理論的な議論とも整合する方向性です。
また、言語モデルと感覚モデルを単に競わせるだけでなく、両者を組み合わせた融合モデルの性能も合わせて検証することで、「言語情報と感覚情報がどのように補い合っているのか」という、より実践的な問いにも答えを与えられる可能性があります。仮に交差点が見つからなかった場合や、複数の交差が生じた場合であっても、それ自体が感覚モデルや言語モデルの限界、あるいは評価課題の偏りを示す重要な手がかりになると位置づけられています。
まとめ:抽象語の感覚性を測ることの意義と次の一歩
本記事で紹介した研究は、「抽象語には感覚情報が乏しい」という素朴な前提を、抽象度・感覚強度・感覚的痕跡という三つの概念に分解し、言語モデルと感覚モデルの性能がどの抽象度で入れ替わるのかを、統計的に頑健な形で推定しようとする試みです。単一の閾値を求めるのではなく、語の品詞や意味のタイプ、評価課題ごとに異なる「条件付きの境界」を描き出そうとする点、そして抽象度と感覚強度を独立した参加者・尺度で測定することで、両者の関係を測定手法自体が作り出してしまう問題を避けようとしている点が、この研究デザインの大きな特徴だと言えるでしょう。
今後は、実際にデータを収集し、感情語や社会関係語、オノマトペなど語のタイプごとにどのような境界の違いが観察されるのかを検証していく段階に進むことになります。あわせて、日本語と英語のような言語間で、この境界がどの程度共通しているのか、あるいは言語ごとに異なるのかを比較していくことも、今後深めるべき重要なテーマとなりそうです。
コメント