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生物学的機能と評価的形式(evaluative form)はどう繋がるか——進化論的自然主義から見る「機能」と「価値」の距離

はじめに

「心臓の機能は血液を送ることだ」という言い方と、「その行為は正しい」という言い方は、どちらも一種の”べき”を含んでいるように聞こえます。この直感が本当に成り立つのかどうかは、生物学的機能(biological function)と評価的形式(evaluative form)という二つの概念を並べて検討することで見えてきます。前者は生命科学が「なぜその形質が存在し、何に寄与しているのか」を説明するための概念であり、Wright の病因論的定式やMillikan・Neander の選択効果説、Cummins の因果的役割説など複数の理論が競合しています。後者は善悪・優劣・理由・べきといった評価的判断の意味論や形而上学、行為指導性を扱うメタ倫理学上の作業概念です。この記事では、両者がどこまで接続でき、どこで切断されるのかを、進化論的自然主義という枠組みを軸に整理します。

生物学的機能とは何か——主要理論の見取り図

Wright の病因論的定式と「機能/偶然」の区別

生物学的機能をめぐる議論の出発点は、Larry Wright の定式化にあります。ある部分の機能がZであるとは、単にその部分がZという効果を持つというだけでなく、その部分が存在しているのはZをするからであり、Zはその部分が存在していることの帰結でもある、という二重の条件を満たすことだとされます。この定式によって、心臓の鼓動音のような副次的効果と、血液循環という本来の機能とを区別できるようになりました。

Millikan・Neander の選択効果説

Ruth Millikan は、Cummins的な非歴史的な分析では、壊れていて機能を果たせない個体をうまく扱えないと指摘し、機能を過去の選択履歴に基づいて定義する立場を提示しました。Karen Neander も同様に、生物学者が実際に用いている「機能」概念は、自然選択によって選ばれてきた効果を指していると論じています。この選択効果説は、正常に働かない状態(malfunction)をうまく説明できる点が強みです。

Cummins の因果的役割説

一方でRobert Cummins は、機能記述の役割は形質がなぜ存在するかを説明することではなく、複雑なシステムの能力をより小さな部分の能力へと分解して分析することにあると論じました。この立場では、機能帰属は分析の文脈に相対的であり、心臓を循環系という文脈で見ればポンプとして機能しますが、別の分析文脈では別の機能付与も理論的には可能になります。

統合的多元主義という現在地

選択効果説と因果的役割説のどちらが正しいかという論争は今も続いていますが、近年では、実際の生物学研究(たとえばタンパク質機能の研究)ではこの両方の概念が並行して使われているという指摘が有力になっています。そのため、唯一絶対の機能定義を探すよりも、どの研究文脈でどちらの機能概念が働いているかを明示する多元主義的な立場が、現実的な落としどころとして支持を集めています。

evaluative form(評価的形式)とは何か——メタ倫理学の論点

evaluative form は「biological function」のように一語で定着した専門用語ではなく、善悪・優劣・徳と悪徳・適切さ・理由・べきといった評価的判断の論理形式を指す作業概念として理解するのが適切です。この領域の論点は大きく四つに整理できます。評価的な言葉は事実を記述しているのか、それとも態度の表明にすぎないのかという意味論の問題。価値や規範的性質は自然的な性質なのか、それとも自然には還元できない独自の性質なのかという形而上学の問題。評価的な真理をどうやって知りうるのかという認識論の問題。そして、なぜ評価的判断が人を動かすのかという行為指導性の問題です。

代表的な立場としては、価値が自然的事実として存在しうると考える自然主義的実在論、価値は自然的性質に還元できないとする非自然主義的実在論、評価的な言葉は態度の表出にすぎないとする表出主義、規範的真理を実践的立場の構成条件から捉える構成主義、そして道徳的言説が前提する権威を擁護できないとみなす誤謬説・懐疑論などがあります。

進化論的自然主義は機能から評価へ橋を架けられるか

弱い規範性と強い規範性

生物学的機能の理論が与えるのは、「心臓は血液を送るべきだ」「腎臓は濾過するべきだ」といった、いわば作動上の”べき”にとどまります。これは正常に働いているか、していないかを区別する弱い規範性であり、道徳的に何をすべきかという強い規範性とは論理的な地位が異なります。この二つを混同しないことが、機能と評価の関係を考えるうえでの出発点になります。

フットとトンプソンのアリストテレス的自然主義

Philippa FootとMichael Thompsonの自然主義は、この弱い規範性を「自然的善」の方向へ押し広げようとする試みです。彼らの立場では、ある個体についての良し悪しは、その個体が属する生命形式(life-form)の自然誌に照らして理解されます。「良い根」「欠陥のある行為様式」といった評価は、単なる感情の投影ではなく、生命形式を参照する事実に近い判断として捉えられる可能性があります。

ストリートとジョイスの系譜学的懐疑論

これに対しSharon StreetやRichard Joyceは、進化が評価的態度の起源を説明できることと、進化や機能が評価の正しさを裏付けることとは別問題だと主張します。進化的な由来がわれわれの価値判断を形づくったとしても、それが独立した価値の実在を正確に追跡している保証にはならない、というのがこの懐疑論の核心です。

is-ought問題と開かれた問い論法という壁

事実の記述からどのように評価が導かれるのかという問題には、古くからHumeのis-ought問題が立ちはだかっています。純粋に「である」で構成された前提から、「べきである」という結論を妥当に導く推論には、常に注意が必要だとされてきました。またG.E. Mooreに由来する開かれた問い論法は、どのような自然的性質を挙げても、「それは確かにその性質を持つが、本当に良いものなのか」という問いがなお意味をなす形で残る、と指摘します。これらの論点は、機能から評価への移行が可能だとしても、その移行が種や生活形式に相対的な評価にとどまりやすく、そこから普遍的で定言的な道徳規範へ進むには追加の前提が必要であることを示しています。

生物学的機能と評価的形式を比較する

両者を並べてみると、生物学的機能は主として説明のための概念であり、評価的形式は主として正当化・意味論・実践のための概念だという違いが見えてきます。機能の議論は形質や器官がなぜ存在し、何に寄与するかを扱い、比較解剖学や系統比較、実験によって検証しやすい性質を持っています。一方で評価的形式の議論は、行為や人格、制度がなぜ善い・悪いと言えるのかを扱い、概念分析や反省的均衡といった手法が中心になります。malfunctionの概念や疾病・障害の哲学は、この二つの概念が部分的に重なり合う境界領域として、今後も重要な検討対象であり続けるでしょう。

まとめ

生物学的機能と評価的形式は、まったく無関係でもなければ、単純に同一視できるものでもありません。機能理論が与える弱い規範性は、フットやトンプソンのアリストテレス的自然主義を経由することで、生命形式に相対的な評価へとつながる可能性があります。しかし、そこから道徳的な”べき”へ進むには、is-ought問題や開かれた問い論法、進化的デバンキングといった論点をくぐり抜ける必要があり、一足飛びの還元は難しいというのが現時点で最も慎重な結論です。

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