認識論において「知識とは何か」を問うとき、概念分析ではなく経験的探究として知識を捉え直そうとしたのがHilary Kornblithの自然種論である。知識を単一の自然種とみなすこの立場は、長らく自然主義的認識論の有力な選択肢とされてきたが、近年では複数主義と社会的種論という二つの方向から根強い批判を受けている。本記事では、Kornblithの基本構想を整理したうえで、これらの批判がどのような論理構造を持つのか、そしてKornblith側の応答がどこまで有効なのかを検討する。

Kornblithの自然種論とは何か
Kornblithは、認識論が扱うべき主題は「知識概念」ではなく「知識そのもの」であるという方法論的立場を取る。直観や概念分析に依拠する伝統的手法は、われわれが知識をどう捉えているかを明らかにするにすぎず、世界の中に実在する知識現象そのものを研究したことにはならない、という考え方である。
この立場は、認知行動学における「knowledge」という語の説明的役割に支えられている。動物の行動を説明する成功した理論の中で知識概念が不可欠な役割を果たしている以上、それは自然のうちに実在する種を指し示している、とKornblithは論じる。さらに彼はRichard Boydの自然種論を援用し、自然種を「相互に支え合う性質の安定的クラスター」として理解したうえで、知識を「reliably produced true belief(信頼的に産出された真なる信念)」というクラスターとして位置づける。
この構想の特徴は、人間の反省的知識と動物の非反省的知識を原理的に別種とみなさない点にある。Kornblithにとって、知識に「高次」の特別な地位を与える理由はなく、この立場が後の複数主義論争における主要な批判の的となっていく。
知識は単一の自然種か──複数主義的批判
複数主義的批判の核心は、「Kornblithの自然種論そのもの」ではなく、「知識が単一の自然種であり、それを認知行動学が特権的に捉える」という一元化の部分に向けられている。
学問領域ごとの複数性
Martin Kuschは、Boydの自然種論そのものを内側から用いてKornblithを批判した。Boydの理論では、自然種は単一の集合として存在するのではなく、それぞれの学問領域(disciplinary matrix)に相対的でありうる。したがって、認知行動学が捉える知識が自然種であるとしても、社会学や科学知識論が扱う知識概念が別の自然種である可能性は排除されない。ここから、「知識には複数の自然種がありうる」とする本格的な複数主義が導かれる。
標準・境界をめぐる複数性
Robin McKennaは、知識が常に何らかの認識論的標準に相対して成立するとする「standards pluralism」を提示した。単一の知識関係を想定するのではなく、複数の知識関係が並立しうるという考え方である。近年のKusch and McKennaによる研究では、Kornblithの中心的コミットメントを精査すると、彼自身が複数の知識種の並立を受け入れざるを得なくなる、という逆説的な結論が示されている。知識を単一の自然種に固定しようとする試みが、かえって複数性へと開かれてしまうという指摘である。
モデル多元主義という補強線
経済学や進化ゲーム理論のように複数のモデルが併存する分野からの類推も、複数主義を後押ししている。何を知識として数えるのが有用かは、固定的な自然的境界によってではなく、説明目的に応じて変わりうる、という見方である。これらの議論を総合すると、説明的な不可欠性は知識のリアリズムを支えることはできても、単一種であることまでは支えない、というのが現時点でより安定した結論といえる。
社会的種論的批判──知識は社会的に構成されるのか
複数主義が「知識は一つではない」と問うのに対し、社会的種論はさらに踏み込んで「人間的知識の重要な部分は、そもそも自然種ではなく社会的種ではないか」と問う。
Kuschはこの批判の端緒として、Kornblithが知識の社会的種としての可能性を十分に検討していない点を指摘した。この路線を体系化したLeandro De Brasiは、知識を証言実践(testimonial practice)に根ざす社会的種として構想し、共同体による承認と真理志向性の両方を条件に組み込む。単純な相対主義ではなく、真理への到達を可能にする社会的規範構造を、知識の構成的要素として扱う点がこの立場の特徴である。
Robin McKennaは、科学的知識が社会的相互批判を通じて正当化されるかぎりで、構成的に社会的現象であると論じる。さらに彼は、reliabilityの閾値そのものが社会的規範によって決まるのであれば、知識はgoldのような自然物よりmoneyのような制度的対象に近いのではないか、という論点も紹介している。ただし彼自身、境界設定の社会的な調整可能性だけで自然種性が否定されるわけではないという留保も付している。
Tammo Lossauはこの「構成的な社会性」をもっとも明瞭に押し出した論者であり、知識を情報の共有と保存を統御する品質基準とみなし、moneyに似た社会的種として理解する。この見方は、知識に関する規範(assertionのnorm)、証言的不正義、誤情報の危険性といった現代的な論点を照らし出す点で説得力を持つ可能性がある。
Kornblith側の応答と擁護の限界
Kornblithは社会的役割そのものを否定しているわけではない。彼の立場は、知識が果たす社会的役割は、より深い自然的性質に「寄生的」に依存しているというものであり、gold の類比を用いてこれを説明する。また、乳児や動物にも知識が存在する以上、知識の本性を言語的・制度的な人間固有の実践に還元することはできない、という反論も維持している。
これらの応答は、単純な社会構成主義に対してはなお有力である。しかし近年の批判が問題にしているのは、社会的役割から知識の本性を導くことそのものではなく、複数の学問領域がそれぞれ異なる説明目的のために異なる知識概念化を必要としているという点であり、この論点にKornblithが正面から答えられているとは言いがたい。2025年の関連論集でも、彼の枠組みが社会的種と自然種の併存、あるいは複数の知識種の並立に開かれてしまう可能性が指摘されている。
まとめ──層化的複数主義という現在地
Kornblithの自然種論は、知識を経験的探究の対象として捉え直した点で今なお重要な出発点である。しかし、認知行動学が捉える知識を「知識そのもの」の唯一の実在的指示対象とみなす一元化の部分は、複数主義と社会的種論の両面から弱められつつある。
現時点で有望に見えるのは、知識を単一の自然種とも純然たる社会的構成物とも決めつけず、領域や説明目的に応じて自然的側面と社会的側面の比重が変わるとする、層化的・複数主義的な理解である。ただし、この立場が単なる曖昧さや相対主義に崩れないための精密化、そして知識の真理条件をどこまで保持できるかという課題は依然として残されている。
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