はじめに:なぜ「存在論」と「一人称性」を結ぶ必要があるのか
心の哲学では、意識の内在的本性を問うラッセル式一元論(Russellian monism)と、行為説明における「私」の削減不能性を問うde se content理論が、しばしば別々の文脈で語られてきた。前者は〈何があるか〉という存在論の水準の議論であり、後者は〈主体にどう与えられるか〉という意味論の水準の議論である。しかし、意識の現象的性格を扱う以上、この二つの水準がどこかで接続されなければ、理論として不完全さが残る可能性がある。本稿では、両者を架橋する試みとして提案されている三つの媒介モデルを概観し、その中でも比較的均衡が取れているとされる「内在的ガイズ二層モデル」の考え方を紹介する。
ラッセル式一元論の基本的な発想
ラッセル式一元論は、物理学が与えるのは事物の構造や力学的な振る舞いであって、基礎的存在者そのものの内在的本性ではない、という着想を出発点に持つ。物理学的記述には還元されない「クィディティ(quiddity)」のような内在的性質が背後に存在し、それが意識の説明に関与するのではないか、という考え方が中心になる。この立場からは、汎心論的な変種や、汎原意識的な変種、あるいは物理主義・中立一元論・観念論寄りの変種など、複数の分岐が生まれてきた。
この立場が抱える代表的な課題として、複数の内在的性質がどのように結合して一つの統一的な意識を構成するのかという「結合問題」がある。個々の要素の内在的性質を足し合わせるだけでは、なぜそれが一つのまとまった経験になるのかを説明しきれない、という指摘は根強い。また、物理学的な構造記述と、内在的性質が要求する非構造的な基盤とがうまく噛み合わないのではないか、という構造的不適合の懸念も指摘されている。

de se content理論が扱う「私」の問題
一方、de se content理論の出発点は、第三人称的な命題だけでは行為の説明が不十分だという観察にある。ある人物が「誰かが散らかしている」という事実を知っていても、それだけでは行動は変わらない。「私が散らかしている」という自己定位的な信念があって初めて、片付けるという行為につながる。この種の事例は、指標詞的な内容が単なる便宜的な言い回しではなく、行為説明にとって本質的な役割を担っていることを示すものとして扱われてきた。
この問題をめぐっては、命題への態度ではなく性質の自己帰属として信念を捉え直す立場や、文脈依存的な意味の層と、それによって固定される内容の層とを区別する立場など、いくつかの理論的な整理が提案されている。さらに、指標詞が示す内容には、公共的に共有可能な側面と、主体の内部で行為を導く側面という、二つの役割が同時に求められているのではないかという指摘もある。この二つの役割を一つの内容だけで担うことの難しさが、de se理論の中心的な論点の一つになっている。
なぜ両者の架橋が課題になるのか
ラッセル式一元論と de se content理論は、扱う対象こそ重なるものの、そのままでは同じ土俵に乗らない。前者は存在論のレベルで「意識を支える内在的な何か」を問い、後者は意味論のレベルで「行為を導く一人称的な内容」を問う。両者を単純に同一視してしまうと、存在論的な主張が意味論の重荷になりすぎたり、逆に意味論的な区別が存在論の議論に何も寄与しなかったりする恐れがある。
したがって、両者を接続する媒介理論には、少なくとも次のような条件が求められると考えられる。第一に、ラッセル式一元論の存在論とも、de se理論の意味論とも矛盾しないこと。第二に、行為説明・自己定位・現象意識といった複数の論点に同時に答えられる説明力を持つこと。第三に、不必要にパラメータを増やしすぎない簡潔さを保つこと。第四に、身体的な自己意識研究などの経験的な知見と接続できる可能性を残すことである。
三つの媒介モデルという構成的提案
こうした課題に対して、いくつかの構成的なモデルが考えられる。
クィディティ指標化中心世界モデル
一つの方向性は、可能世界・時点・主体という組にラッセル式一元論の内在的性質を座標として加え、de se の内容そのものの中に存在論的な情報を組み込むというものである。形式的な一体性という利点がある一方で、公共的に共有できるはずの内容の中に存在論的な重荷を持ち込みすぎることで、内容の共有可能性そのものが揺らいでしまう可能性がある。
内在的ガイズ二層モデル
もう一つの方向性は、公共的に共有可能な内容と、主体の側でその内容を「自分についてのもの」として実現する「内在的ガイズ」とを分けるというものである。存在論的な主張は内容そのものではなく、このガイズの側に配置される。こうすることで、公共内容は他者との合意の単位として機能し、内在的ガイズは行為説明や現象的な厚みを担う、という役割分担が可能になる。三つの案の中では、この二層モデルが比較的バランスの取れた案として位置づけられている。
一人称メンタルファイル実在化モデル
三つ目の方向性は、対象への参照を記述によってではなく文脈的な関係によって蓄積する「メンタルファイル」という枠組みを採用し、一人称ファイルがどのような内在的性質によって実現されるかに焦点を当てるものである。身体的な自己意識研究との接続が良く、経験科学との往復がしやすいという長所がある一方で、なぜそのファイルの実現に特定の内在的性質が必要なのかという形而上学的な基礎づけは、相対的に弱くなる可能性がある。
内在的ガイズ二層モデルが有力とされる理由
三案を比較したとき、内在的ガイズ二層モデルが比較的均衡していると考えられる理由は、公共的な内容の共有可能性と、行為説明に必要な一人称的な厚みという、二つの要請をどちらも大きく犠牲にしないで済む点にある。存在論的な主張を内容そのものに直結させるのではなく、内容が主体にどのように与えられるかを支える媒体の側に置くことで、存在論と意味論のそれぞれの役割を保ったまま接続できる可能性がある。
さらにこのモデルは、実装のレベルではメンタルファイル理論の語彙を借りることもできるため、理論的な骨格としての二層モデルと、経験的な検証のための語彙とを組み合わせるハイブリッドな運用が考えられる。これにより、身体的な自己意識研究が区別する自己定位・一人称的視点・自己同定といった要素を、意味論的な議論の検証軸として転用できる可能性が出てくる。
経験的検証との接続可能性
この種の媒介理論の評価は、概念的な整合性だけでなく、経験的な検証可能性にもかかっていると考えられる。たとえば、同一の公共的な内容に同意しているように見える複数の主体が、行為への反映のされ方において異なる様相を示すかどうかを調べることで、公共内容と内在的ガイズの区別が支持されるかを検討できる可能性がある。また、自己に関連づけられた刺激がそうでない刺激より優先的に処理される現象や、自己参照が記憶を強めるとされる現象なども、一人称的な厚みを間接的に反映する指標として扱いうるかもしれない。ただし、これらはあくまで理論的な予測であり、現時点で確定した実証結果として扱うべきではない点には注意が必要である。
まとめと今後の展望
ラッセル式一元論の存在論的な内在性と、de se content理論が求める一人称的な厚みは、同じものを別の名前で呼んでいるのではなく、異なる説明レベルに属していると考えられる。この二つのレベルを、内容そのものではなく「内在的ガイズ」という媒介概念によって接続する二層モデルは、公共性と一人称性のどちらも大きく損なわずに両理論を橋渡しできる可能性を持つ構成的な提案である。もっとも、この分野はなお発展途上であり、概念の精緻化と経験的検証の両面から検討を重ねる必要がある。
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