はじめに――「関係」という言葉が招く混乱
「世界は関係でできている」という主張を、物理学者と認知科学者が独立に語っている。一方はカルロ・ロヴェッリの関係論的量子力学(Relational Quantum Mechanics:以下RQM)、もう一方はフランシスコ・ヴァレラらが牽引したエナクティビズムである。どちらも絶対的・観測者独立的な世界記述を退け、相互作用と文脈を重視する。だが「関係」という語を共有するだけで、両理論が同じことを言っているわけではない。
本記事では、RQMの核概念である「相対的事実(relative facts)」とエナクティビズムの「意味生成(sense-making)」を比較し、両者がどこで交わり、どこで決定的に分岐するかを整理する。物理学と哲学・認知科学の境界を行き来する議論であるが、できるかぎり平易に、かつ一次文献の論点を正確に踏まえながら論じていく。
RQMとは何か――「事実は疎であり、相対的である」
ロヴェッリが退けたもの
ロヴェッリは1996年の論文「Relational Quantum Mechanics」(International Journal of Theoretical Physics)で、量子力学の困難の根源を「observer-independent state」という前提に見いだした。量子系が常時、誰に対しても同一の状態を持つと仮定するから測定問題が生じる。ならばその前提を捨ててしまえばよい、というのが出発点である。
観測者は意識を持つ人間である必要はない。ロヴェッリ自身、「observer can be a table lamp(観測者は電球でよい)」と明言しており、任意の物理系が「観測者」の役割を担える。重要なのは、ある物理系が別の物理系と相互作用した、という関係だけである。
「相対的事実」の定義
2021年にDi Biagio & Rovelliが整理した定式化によれば、relative facts(相対的事実)とは「ある物理系が別の物理系と相互作用するたびに成立する事実」である。つまり事実は相互作用の点でのみ生じ、相互作用した相手系に「相対的」である。同じ出来事であっても、異なる系はそれぞれ整合的でありながら異なる記述を与えうる。
ロヴェッリはこれを短く要約する。
“facts are sparse and relative.”
「sparse(疎)」とは、古典力学のようにすべての変数が常に値を持つわけではなく、相互作用の瞬間にのみ事実が立ち上がることを意味する。「relative(相対的)」とは、その事実がどの物理系との相互作用において成立したかが本質であることを意味する。
「状態中心」から「事実中心」へ
2022年のDi Biagio & Rovelli論文「Relational Quantum Mechanics is About Facts, Not States」は、RQMの再定式化として重要である。量子状態は一次的実在ではなく、事実(physical events)こそが存在論的な基礎単位に置かれる。測定問題は「波動関数がいつ絶対的に収縮するか」ではなく、「どの系に相対的な事実が成立したか」という問いに読み替えられる。安定的な事実(stable facts)は、デコヒーレンスによって相対性のラベルを無視しても差し支えなくなった相対的事実の部分集合として出現する。
エナクティビズムとは何か――生命と意味の連続性
ヴァレラから始まる系譜
エナクティビズムの起点は、ヴァレラ・トンプソン・ロッシュによる1991年の著作『The Embodied Mind』(MIT Press)である。認知を「世界の内部表象の処理」として捉える古典的認知科学に対し、身体的行為を通じて世界を「enact(行為を通じて立ち上げる)」する過程として再定位したのがその核心である。ヴァレラは「the action that brings forth a world(世界を立ち上げる行為)」と記し、環境と主体の差異そのものが認知活動によって分節されると論じた。
意味生成の条件――オートポイエーシスと適応性
エナクティブな意味生成の条件を整理したのが、Di Paoloの2005年論文「Autopoiesis, Adaptivity, Teleology, Agency」(Phenomenology and the Cognitive Sciences)である。オートポイエーシス(自己産出)だけでは不十分であり、自己の生存可能性条件に照らして相互作用を調整できる「adaptivity(適応性)」が加わることで初めて、意味生成は自然化された概念になると論じる。
Thompson & Stapletonは意味生成をこう定義する。
“Sense-making is behaviour or conduct in relation to environmental significance and valence.”
「significance(有意性)」と「valence(価値的極性)」というキーワードが示すとおり、エナクティビズムにおける意味とは、主体の自律性・適応性に支えられた規範的な価値づけである。環境は中立的な物理空間ではなく、主体にとって「良い・悪い」「近づくべき・避けるべき」という方向性を帯びた環世界(Umwelt)として立ち上がる。
社会的意味生成への拡張
De Jaegher & Di Paoloの「participatory sense-making(参与的意味生成)」論は、意味が個体の内部に閉じないことを示す。二者の相互行為が安定した協調パターンを形成するとき、個々の主体には存在しなかった新たな意味領域が開かれる。社会的認知は、個人の頭の中の処理ではなく、相互作用全体のダイナミクスから生じるという視点である。
両理論の比較――何が同じで何が違うのか
共鳴する四つの論点
RQMとエナクティビズムは、以下の四点で確かに共鳴する。
第一に、絶対的状態像への懐疑。 RQMはobserver-independent stateを退け、エナクティビズムはpre-given neutral worldを前提しない。どちらも「あらかじめ与えられた中立的世界」という想定を拒否する。
第二に、相互作用の一次性。 RQMでは相互作用が事実を成立させ、エナクティビズムでは相互作用が意味を立ち上げる。両者とも、孤立した実体より関係・相互作用を存在論的に優先させる。
第三に、特権的観測者の否定。 RQMでは意識を持つ主体は不要であり、エナクティビズムでも認知は身体と環境の連関に分散している。どちらも「認識の特権的な中心」を設けない。
第四に、非表象主義への傾き。 RQMは量子状態を補助的記述に下げ、エナクティビズムは基礎的認知に内容表象を必要としない(特にHutto & Myinのラジカル・エナクティビズム系統)。
決定的な三つの相違点
しかし、理論的には相違点のほうが本質的である。
相違点1:物理的相対性 vs 規範的価値づけ
RQMの「relative」は物理的相対性である。ある変数値が特定の相手系に対して成立したというミニマルな事実条件を示すだけであり、それ自体に「食物」「脅威」「道具」といった価値的方向性は含まれない。一方、エナクティブな意味生成では、環境の同じ項が「主体の生存可能性にとって良いか悪いか」という規範性を帯びる。RQMは「何が成立したか」を与えるが、「それが主体にとって何を意味するか」は与えない。
相違点2:観測者概念の厚みの差
RQMのobserverは物理系でありさえすれば十分であり、主観性・自律性・履歴は必要条件ではない。これに対してエナクティビズムの主体(agent)は、自律性・適応性・身体的履歴を構成条件とし、自己維持的な生命プロセスと認知の連続性が前提される。「観測者」という語を同一視すると両者の差が見えにくくなるが、実質的に指し示す概念は大きく異なる。
相違点3:意味論的内容の有無
RQMの相対的事実は、意味論的内容(セマンティクス)を持たない。対して、エナクティブな意味生成は内部表象的なセマンティクスとは切り離されているが、valenceとconcernに支えられた「実践的意味」を有する。RQMの関係性とエナクティブな意味生成を同一視することは、この点で不正確になる。
階層的相補性――RQMとエナクティビズムをどうつなぐか
二層モデルの提案
両理論は同義ではないが、RQMが事実の成立条件を、エナクティビズムが意味の規範的条件を与えるという階層的相補性として接続することは十分に構想可能である。
一つの思考実験として、自律的な小さなロボットエージェント(A)が量子センサー(S)を通じて外部信号を取得する場面を考える。RQMの枠組みでは、AとSの相互作用によって「Aに相対的な事実」が成立する。これは純粋に物理的な記述である。だが、その事実が「栄養が近い」「外敵が近い」といった意味を持つのは、Aが自己維持変数を持ち、信号に応じて行動を変える能力、すなわち適応性を備えているときだけである。RQMは相対的事実の成立条件を説明し、エナクティビズムはその事実が主体にとってどのような規範的意味を持つかを説明する。両者は競合するのではなく、異なる説明の層を担っている。
ウィグナーの友人を生物学化する
ウィグナーの友人問題は、量子力学の解釈を巡る有名な思考実験である。「友人」を単なる測定装置としてではなく、自己維持的な生体的主体として考え直すとどうなるか。RQMでは、測定後に友人Fに対して相対的な事実が成立しうる一方、外部のウィグナーはなお重ね合わせとして記述できる。エナクティビズムが付け加えるのは、FにとってのこのFの事実が、単なる物理的事実ではなく、情動・注意・行為準備を伴う「意味づけられた出来事」になりうるという点である。ただし、この意味づけはobserver-independent factを回復しない。エナクティブな主体性を導入してもRQMの相対性は消えない。ここに両理論の緊張と相補性が同時に宿っている。
エナクティビズム内部の差異に注意する
なお、エナクティビズムは単一の理論体系ではない。Thompson・Di Paolo系のオートポイエティック路線が意味生成を中核化するのに対し、Hutto & Myinのラジカル・エナクティビズムは基本認知に強い意味生成語彙を読み込まない方向へ理論を引き締める。RQMと相補的に接続しやすいのは、規範性を強く備えたオートポイエティック・エナクティビズムの系統と考えられるが、この接続可能性自体が今後の研究課題として残る。
まとめ――「事実の層」と「意味の層」を区別することの重要性
RQMとエナクティビズムを比較した本記事の要点をまとめると次のようになる。
- **RQMの「相対的事実」**は、物理系間の相互作用において相対的に成立するミニマルな事実条件であり、意識や主観性、価値づけを必要としない。
- **エナクティビズムの「意味生成」**は、自律的・適応的な生体主体が自己の生存可能性条件を軸として環境を規範的に分節することで生じる。
- 両者は、絶対的状態像の否定・相互作用の一次性・特権的観測者の否定という点で共鳴するが、「物理的相対性」と「規範的価値づけ」は概念的に異なる水準に属する。
- 最良の関係は同一視でも対立でもなく、「どんな事実がいつ誰に対して成立するか」をRQMが、「その事実が主体にとって何になるか」をエナクティビズムが説明するという階層的相補性として捉えることである。
この区別を丁寧に保ちながら両理論を接続していくことが、物理学・哲学・認知科学を横断する今後の学際的研究にとって生産的な出発点となるだろう。
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