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関係論的量子力学とエナクティビズムはなぜ「同じ」に見えて違うのか——相対的事実と意味生成の境界線

はじめに——「関係」という語が招く混乱

「世界は関係でできている」という言葉が指す先は、文脈によってまったく異なる。

カルロ・ロヴェッリの関係論的量子力学(Relational Quantum Mechanics、以下RQM)が語る「関係的事実」は、量子系が別の物理系と相互作用するときにのみ成立する、疎で相対的な出来事のことを指す。一方、フランシスコ・バレラやエズキエル・ディ・パオロらが提唱するエナクティビズムが語る「意味生成(sense-making)」は、生命体が自律的に自己を維持し、環境を価値づけられた世界として立ち上げる規範的プロセスのことを指す。

この二つの理論は、絶対的・観測者独立的な世界像を批判し、相互作用と文脈を重視するという点で表面的に近接して見える。だが、それぞれが答えようとしている問いは根本的に異なる。RQMは「事実はいつ・何に対して成立するか」を問い、エナクティビズムは「その事実が主体にとってどのような意味をもつか」を問う。

本記事では、この二つの理論を一次文献に基づいて丁寧に整理し、共通点と相違点、そして相補的な接続可能性を探る。


RQM(関係論的量子力学)とは何か——状態から事実へ

ロヴェッリが問い直した「観測者独立的状態」という前提

RQMの出発点は、1996年にカルロ・ロヴェッリが発表した論文「Relational Quantum Mechanics」(International Journal of Theoretical Physics)にある。ロヴェッリは、量子力学の困難の根源を「observer-independent state of a system(観測者独立的な系の状態)」という前提そのものに求め、この概念を放棄することを提案した。

ロヴェッリの見立ては明快だ。量子状態を絶対的な実在としてではなく、「ある系が別の系についてもつ情報」として理解し直すことで、量子論の「奇妙さ」の多くは解消の方向へ向かう可能性がある、というものだ。彼は「異なる観測者は同じ出来事について異なる記述を与えうる(distinct observers give different descriptions of the same events)」と述べ、さらに観測者は意識をもつ特権的な主体である必要はなく、「テーブルランプであっても構わない(the observer can be a table lamp)」とまで明言する。これはRQMの核心を示す言明だ。

「事実は疎で相対的である」——RQMの核心命題

2022年に発表された論文「The Relational Interpretation of Quantum Physics」(Oxford Handbook of the History of Quantum Interpretations 所収)では、RQMの核がより明確に再提示された。ロヴェッリは「facts are sparse and relative(事実は疎で相対的である)」という短句でRQMの本質を要約する。

ここで「sparse(疎)」とは、古典力学のようにすべての変数が常時値をもつわけではなく、相互作用の瞬間においてのみ事実が成立するという意味だ。そして「relative(相対的)」とは、その事実が「誰に対して成立したか」という意識の問題ではなく、「どの物理系との相互作用において成立したか」という物理的文脈の問題であることを意味する。

Di Biagio & Rovelli(2021、Foundations of Physics)は、この枠組みをさらに整理し、「relative facts(相対的事実)」と「stable facts(安定的事実)」を区別した。相対的事実は「ある物理系が別の物理系と相互作用するときはいつでも(whenever a physical system interacts with another physical system)」成立する。安定的事実はそのうち、デコヒーレンスによって相対性を事実上無視しても差し支えない部分集合として出現する。翌2022年の論文「Relational Quantum Mechanics is About Facts, Not States」では、RQMが「状態中心(state-centred)」ではなく「事実中心(fact-centred)」であることが明示された。

測定問題の再記述としてのRQM

RQMが測定問題に対して与える答えは、「波動関数がいつ絶対的に収縮するか」という問い自体をずらすことにある。問いは「どの系に相対的な事実が成立したか」へと変換され、収縮は観測者独立の出来事としてではなく、特定の相互作用における相対的事実の成立として理解される。

これはRQMが量子力学の形式を変更するのではなく、その「読み方」を変更するアプローチであることを示している。標準的な量子論と予測を共有しつつ、存在論的な解釈を大きく刷新するのがRQMの戦略だ。


エナクティビズムとは何か——身体化から規範的意味生成へ

認知科学の転換点としての『身体化された心』

エナクティビズムの系譜的な起点は、1991年にフランシスコ・バレラ、エヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュが共著した The Embodied Mind(MIT Press)に求められる。ここで認知は、世界の内部表象を処理するプロセスとしてではなく、身体的行為を通じて世界を「enact(演じ出す)」する過程として再定位された。

バレラは1997年の論文「Patterns of Life: Intertwining Identity and Cognition」(Brain and Cognition 34:72–87)で、生命と認知の連続性を、自己維持するアイデンティティと「世界を立ち上げる活動(world-bringing)」の連結として描いた。「行為が世界を立ち上げる(the action that brings forth a world)」という言明は、環境と主体の差異そのものが認知活動によって分節されるというエナクティビズムの根本テーゼを端的に表現している。

意味生成に必要なもの——オートポイエーシスと適応性

エズキエル・ディ・パオロは2005年の論文「Autopoiesis, Adaptivity, Teleology, Agency」(Phenomenology and the Cognitive Sciences 4:429–452)において、自己産出(autopoiesis)だけでは意味生成を十分に説明できないと論じた。生存可能性の条件に照らして相互作用を調整できる「適応性(adaptivity)」が加わることで初めて、意味生成は自然化される可能性があるというのがディ・パオロの主張だ。

Weber & Varela(2002、Phenomenology and the Cognitive Sciences 1:97–125)は、生命を「関心の自律的中心(an autonomous center of concern)」として捉え、自己維持の営みから「意味を創出する目的(sense-creation purpose)」が生じると論じた。

この文脈でトンプソンとスタープルトンは、意味生成を次のように定式化している。「意味生成とは、環境的有意性と価値に関わるふるまいや行為のことである(Sense-making is behaviour or conduct in relation to environmental significance and valence)」(Thompson & Stapleton 2008、Topoi)。ここでの「関係」は、RQMのような物理的相対性ではなく、主体の自律性に支えられた「価値づけられた関係性」だ。

社会的な意味生成へ——参加的センスメイキング

De Jaegher & Di Paolo(2008)は、意味生成が個体の内部に閉じないことを示した。「参加的センスメイキング(participatory sense-making)」とは、相互行為が個体の意味生成を組み替え、単独の主体には存在しなかった新たな意味領域を開くプロセスだ。これにより、主体性は固定的に与えられるものではなく、自己組織化され、相互行為のなかで共同変容するものとして理解されるようになった。

なお、エナクティビズムは単一の理論ではない点にも注意が必要だ。Hutto & Myin の「ラディカル・エナクティビズム(Radicalizing Enactivism, 2013; Evolving Enactivism, 2017)」は、基本認知を内容なし(contentless)とみなし、意味生成という語彙を最小化しようとする方向へ理論を引き締める。したがって「エナクティブな意味生成」はエナクティビズム全体の唯一の不変核ではなく、主としてバレラ=トンプソン=ディ・パオロ系の流れで中心化された概念だということを踏まえておく必要がある。


RQMとエナクティビズムの比較——共通点と本質的相違

共通する四つの姿勢

両理論には、少なくとも四つの共通する姿勢が見出せる。

第一に、絶対的状態・中立的世界像への懐疑だ。RQMは観測者独立的状態を退け、エナクティビズムは予め与えられた中立的世界を前提しない。どちらも、「ただそこにある」ような絶対的な実在を出発点にしない。

第二に、相互作用の一次性だ。RQMでは相互作用が相対的事実を成立させ、エナクティビズムでは相互作用が意味を立ち上げる。世界は相互作用なしには記述できないという点で、両者は一致している。

第三に、特権的観測者の否定だ。RQMでは観測者に意識は不要であり、エナクティビズムでも認知は身体‐環境連関に分散している。どちらも、デカルト的な「認識する主体」を特権的な立場から引きずり下ろす。

第四に、非表象主義への傾斜だ。RQMは量子状態を補助的記述に位置づけ、ラディカル・エナクティビズムは基本認知に内容表象を必要としない。

本質的相違——物理的相対性と規範的価値づけ

しかし、相違点の方が理論的には決定的だ。最大の違いは、RQMの「relative」は物理的相対性であり、エナクティビズムの「meaning」は規範的価値づけであるという点にある。

RQMの相対的事実は、ある変数値が特定の相手系に対して成立したというミニマルな事実条件だ。それ自体には、食物・脅威・誘惑・道具といった「価値づけ(valence)」は含まれていない。対して、エナクティブな意味生成では、同じ環境の項が「主体の生存可能性にとって良いか悪いか」という規範性を帯びる。RQMは「何が成立したか」を与えるが、「それが主体にとって何を意味するか」は与えない。

第二に、主体概念の厚みの違いがある。RQMでは観測者は物理系であれば十分だ。これに対してエナクティビズムでは、自律性・適応性・履歴・身体性が主体性の構成条件になる。「観測者」という同じ日本語を当てると混同しやすいが、RQMの observer とエナクティビズムの agent は同義ではない。

第三に、用語の見かけの近さが招く誤読がある。RQMが「相対的」「視点」「観測者」という語を多用するため、しばしば現象学的・主観主義的な理論だと誤読される可能性がある。だがロヴェッリの「relative」は「subjective(主観的)」を意味しない。他方、エナクティブな「meaning」も命題的な内容(semantic content)を意味しない。RQMの関係性とエナクティブな意味生成を同一視することは不正確だ。


相補的接続の可能性——二層モデルという構想

RQMが事実の条件を、エナクティビズムが意味の条件を与える

両者の最良の関係は、同一視でも対立でもなく、階層的相補性として捉えることが考えられる。

提案的な思考実験として、自律エージェント A が量子センサー S を通じて二値信号を得る状況を考えてみよう。RQM的には、A と S の相互作用において A に相対的な事実が成立する。これはあくまでも物理的な事実の成立だ。しかしこの信号が「栄養が近い」「脅威が近い」という意味をもつのは、A が自己維持変数をもち、その信号に応じて行動を変えることができるときに限られる。RQMは事実の成立条件を与え、エナクティビズムはその規範性の成立条件を与える。両者は競合するのではなく、異なる層の説明を担っている可能性がある。

この考え方を延長すると、ウィグナーの友人の問題を「生物学化」することもできる。友人 F を単なる測定装置ではなく、自己維持的な生体的主体とみなした場合、RQMでは測定後に F に対して相対的な事実が成立しうる。エナクティビズムはここに「F にとって、その事実は情動・注意・行為準備を伴う意味づけられた出来事になりうる」という層を付け加える。ただし、この意味づけは観測者独立的な事実を回復しない。エナクティブな主体性を導入してもRQMの相対性は消えない。ここに両理論の緊張と補完が同時にある。

社会的意味生成と量子的最小モデルの接点

参加的センスメイキングを量子的記述に接続する試みも構想可能だ。知覚交差(perceptual crossing)研究が示すように、相互行為の成功は正しい内部表象の保持よりも、相互作用全体が安定したモードを形成することから生じる可能性がある。ここでも、RQMが相互作用における事実の成立条件を与え、エナクティビズムがその相互行為の規範的安定性を説明するという役割分担が見えてくる。

ただしこれらはあくまでも提案的な思考実験であり、既存の文献が直接予測しているものではない。今後の学際的研究が取り組むべき問いとして提示されるべき性格のものだ。


まとめ——「事実の層」と「意味の層」を切り分けること

RQMとエナクティビズムは、「関係性」という語を共有しながらも、理論的には異なる水準に属している。

RQMが主張するのは、世界が観測者独立的な状態の集合としてではなく、相互作用において相対的に成立する事実のネットワークとして記述されるということだ。エナクティビズムが主張するのは、世界が主体にとって意味をもつのは、主体が自律的・適応的に自己を維持し、その視点から環境を価値づけられた世界として分節するからだということだ。

RQMの事実はエナクティブな意味の十分条件ではなく、せいぜい必要条件の一部に近い。この二つを切り分けた上で接続することが、今後の学際的研究にとって最も有望な方向性の一つとなる可能性がある。

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