はじめに:なぜ「翻訳」概念の系譜を押さえるべきなのか
アクターネットワーク理論(ANT)やブルーノ・ラトゥールの思想を学ぶと、「翻訳(translation)」という語に何度も出会います。ただ、この語はある国の言葉を別の国の言葉に置き換えるという意味では使われていません。源流にはフランスの哲学者ミシェル・セールの traduction 概念があります。
本記事では、まずセールの翻訳概念の中身を確認します。次にカロンとラトゥールのANTへ受け継がれた経緯をたどり、最後に後期ラトゥールの『存在様式探求』(AIME)で翻訳がどう位置づけ直されたかを整理します。
ミシェル・セールの「翻訳」概念とは何か
演繹・帰納・生産と並ぶ「Duction」としての翻訳
セールの翻訳論の中心にある原典は『エルメスⅢ――翻訳』(1974)です。セールはこの本で、数学の演繹(déduction)、実験の帰納(induction)、実践の生産(production)、テクストの翻訳(traduction)を同じ語族として並べています。そのうえで、哲学そのものを接頭辞の違う「Duction」として捉える可能性を示しました。
この見方では、哲学者はすべての領域を上から裁く審判ではありません。異なる領域のあいだで操作を運び、運ぶ途中で何が保たれ、何が変わるかを追う人です。セールは哲学者を荷役人や錠前師にもたとえており、翻訳を物を運ぶ物質的・空間的な作業としてイメージしていたことがうかがえます。
翻訳は「変換を伴う移送」である
セールの考える翻訳では、出発点Aと到着点Bは同じものになりません。途中に迂回(détour)や媒介、符号化、ノイズ、再構成が入るからです。『エルメスⅢ』は、遺伝学、絵画、熱力学、文学といった異なる分野で、可視的なものと可読的なもののあいだの変換を繰り返し論じています。
この「透明に伝わることはない」という考え方は、のちの『パラジット』でノイズや寄生の論理として、さらに突き詰められていきます。
科学は「翻訳を通じた不変性」で特徴づけられる
セールは、科学をどんな翻訳戦略にかけても最もよく不変であり続けるメッセージの集まりとして描きました。これは、科学的な言明が変換されないという意味ではありません。図にし、数式にし、測定し、論文にするという変換を何度も受けたあとでも、ある関係が保たれていることが科学らしさをつくる、という主張です。
この「変換を経ることで初めて手に入る不変性」という発想は、のちのラトゥールの参照連鎖(reference chain)につながっていく可能性がある重要な論点です。
セールからカロン、ラトゥールへ:翻訳概念の系譜
セール翻訳論の思想的背景
セールの翻訳概念は、ひとつの源泉から生まれたものではありません。主な背景として、次のようなものが挙げられます。
- ライプニッツ:固定したメタ言語を持たない百科全書的な体系
- ブルバキ:構造数学
- ブリルアン:熱力学・情報理論
- ヤコブソン:構造言語学
バシュラールとの関係は、素直な継承とは言えません。バシュラールは科学と常識の「認識論的断絶」を重視しました。セールはこれに対し、領域のあいだの通路や連続的な変形を追っています。そのため、断絶の認識論に対する内側からの反論として読むほうが適切だと考えられます。
カロンの「翻訳の社会学」
確認しやすい直接の継承ルートは、セール → ミシェル・カロンです。『エルメスⅢ』の翌年、1975年にカロンはセールの概念を社会学に応用し始めたとされています。
1986年のホタテガイ研究では、翻訳を次の四つの段階で説明しています。
- 問題化(problematization)
- 関心づけ(interessement)
- 登録(enrolment)
- 動員(mobilization)
カロンにとって「翻訳するとは移置すること」であり、翻訳は結果である前に過程です。セールでは構造やメッセージの変形が主題でしたが、カロンでは「誰が誰を代弁するのか」という代表と権力の問題へ重心が移っています。
『虚構の「近代」』における翻訳と純化
ラトゥールは『虚構の「近代」』(We Have Never Been Modern)で、翻訳と純化(purification)を近代を形づくる二つの実践として並べました。翻訳は自然と文化にまたがるハイブリッドを生み出し、純化は人間と非人間を切り分けます。ラトゥールの見立てでは、近代とは翻訳を実践し続けながら、純化の言説によってそれを否認する体制です。
ラトゥール『存在様式探求』における翻訳の位置
[NET]:存続するためには「通過」しなければならない
『存在様式探求』(2012/2013)で注目すべき点は、翻訳が独立した存在様式として扱われていないことです。翻訳はまず[NET](ネットワーク)に属し、存在一般に当てはまる通過の原理として現れます。
ラトゥールによれば、存在が同じであり続けるとは、何も起こらずに状態を保つことではありません。他の存在を経由し、変わりながら持続することです。初期ANTの「利害と行為の移置」としての翻訳は、ここで存在論的な一般原理にまで広げられています。
[PRE]:翻訳を「様式化」する装置
一方で、ラトゥールはネットワーク概念の弱点も認めています。ネットワークは人為的な境界を崩すのは得意ですが、法、科学、宗教といった価値の違いを区別する力は弱かったというのです。
そこで導入されたのが[PRE](前置詞)です。[NET]では「何を経由するか」を追い、[PRE]では「どのような仕方で変わるか」を特定します。問いの形で並べると、次のようになります。
- セール/初期ANT:AはなにをとおってBへ翻訳されるのか
- AIME:Aは何を経由して変わるのか、その変化はどの様式に固有の成功条件のもとで起こるのか
たとえば科学的参照[REF]では、変換の連鎖を通じて定数が保たれることが成功の条件です。技術[TEC]は「入れ子状の翻訳の迷宮」として描かれます。AIMEは翻訳を手放したわけではありません。翻訳だけでは違いを説明できないため、翻訳を様式化したと見るのが妥当です。
ダブルクリック[DC]:変換なき輸送という幻想
翻訳と対になる概念がダブルクリック[DC]です。これは、情報が媒介も変形もなしに直接届くという近代的な幻想を指します。セールが退けた「透明な伝達」は、AIMEでは近代人が自分たちの実践を誤って記述してしまう原因として扱われています。
セールとラトゥールの翻訳概念:共通点と相違点
共通点は大きく三つあります。
- 伝達はそのままの運搬ではなく、媒介者が介入すれば変形が生じる
- 同一性は、移動と変換をくぐり抜けた結果として成り立つ
- 迂回は歪みではなく、何かを生み出すための条件である
相違点も重要です。
- セールの翻訳は「領域を横断する構造操作」であるのに対し、ANTでは「関係を構築する政治学」になる
- セールは科学を不変性によって特徴づけたが、AIMEはそれを[REF]という一様式の成功条件に限定する
- AIMEは、何でも翻訳として解体してしまうANTの平板化に自らブレーキをかけている
整理すると、セールは翻訳によって異質な知を結び、カロンと初期ラトゥールは翻訳によって行為者をネットワークにしました。後期ラトゥールは、存在とは翻訳的な通過だが通過の仕方は複数あり、互いに還元できないと考えます。この三段階で捉えると見通しがよくなります。
なお、「存在様式」という枠組みの主な出所はセールではありません。スーリオとW・ジェイムズです。翻訳の系譜と存在様式の系譜が後期ラトゥールで交わったと理解するのが正確です。
翻訳概念への評価と主な批判
セールの翻訳概念は強力な発見法である一方、正当な翻訳と単なるアナロジーをどう区別するのかが曖昧になる危険があります。また、後期セールのノイズ論や寄生論との緊張関係も指摘できます。
ANTについては、成功したネットワークを後から追うことで、失敗した行為者や沈黙させられた行為者を見落とす危険が早くから論じられてきました。
AIMEに対しては、前置詞や成功条件の具体的な分析が足りないという批判があります。さらに、すべてに共通する翻訳と、様式ごとに固有の通過との関係がどこまで説明力を持つのか、という未解決の問題も残っています。一方で、マニグリエのようにAIMEを形而上学の「外交」として前向きに評価する見方もあります。
まとめ:翻訳概念の系譜から見えること
- セールの翻訳は、言語間の置き換えではなく「変換を伴う移送」であり、不変性は変換を通じて成立する
- その概念はカロンの翻訳の社会学を経てANTの中核になり、代表と権力の問題へ移った
- 後期ラトゥールのAIMEでは、翻訳は[NET]の一般原理として保たれ、[PRE]によって様式ごとに限定し直された
- AIMEはセールの翻訳を単純に拡張したものではなく、スーリオやジェイムズの多元論と交差した結果である
『エルメス』シリーズの英訳が進んでいる今は、これまで「セールの影響」とひとまとめに語られてきたものを、テクストに即して検証し直す好機になる可能性があります。
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