生成AIと人間が協働し、義手が神経と接続し、記憶が外部デバイスに委ねられる時代において、「主体性(agency)とは何か」という問いはかつてないほど切実である。この問いに答えようとする二つの有力理論——拡張認知(Extended Mind Theory)とオートポイエーシス(Autopoiesis)——は、長らく別々の文脈で発展してきた。本稿は、両理論を統合することで生まれる新たな主体性の定義と、それが医療・AI・文化という三領域にどのような含意をもたらすかを論じる。

拡張認知とオートポイエーシスの理論的基礎
拡張認知:皮膚と頭蓋骨を超える認知の境界
拡張認知の出発点は、アンディ・クラーク(Andy Clark)とデイヴィッド・チャーマーズ(David Chalmers)による1998年の論文「The Extended Mind」である。そこで提示された核心的主張はシンプルだ——「頭の中で起きていたなら認知過程とみなすものは、それが世界内で起きていても認知過程とみなすべきである」。
論文が示す「Otto」の例は象徴的である。アルツハイマー病のOttoは、日常的にノートに情報を書き留め、それを「外部記憶」として活用する。Clarkらはこのノートを、健常者の脳内記憶と機能的に等価な認知資源と捉えた。つまり認知の境界は、皮膚や頭蓋骨によって固定されるのではなく、信頼的カップリング(reliable coupling)を通じて外部資源へと動的に拡張しうる。
この視点は、言語・計算機・スマートフォン・そして生成AIを、単なる「道具」ではなく「認知過程の構成要素」として捉え直す根拠となる。エドウィン・ハッチンズ(Edwin Hutchins)の「Cognition in the Wild」(1995)は、船舶航法という実践を通じて、認知が人と道具から成る局所的機能システム全体に分散していることを実証的に示した。拡張認知は今や、教育・医療・テクノロジー設計の多様な領域に波及している。
オートポイエーシス:自己産出する生命システムの自律性
一方、オートポイエーシスはウンベルト・マトゥラーナ(Humberto Maturana)とフランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)によって1970年代初頭に提唱され、1980年の「Autopoiesis and Cognition」で定式化された(邦訳:1991年)。その中心概念は、生命を「構成素を産出する過程のネットワークが自己を再生産しつつ、自らの境界を具体化するシステム」として定義することにある。
オートポイエティックなシステムは、外部から指令されるのではなく、自らの存立条件を自己組織的に維持する。ここから導かれるのが「センスメイキング(sense-making)」という概念だ——生体は、自らの生存可能域(viability)に照らして世界を意味あるものとして構成する。恐怖や空腹という感覚は、単なる神経信号ではなく、自己維持系が世界に向ける評価的まなざしである。
エゼキエル・ディ・パオロ(Ezequiel Di Paolo)は2005年、オートポイエーシスだけでは「主体性」を説明するには不十分だとして「適応性(adaptivity)」概念を追加した。自己維持するだけでなく、自らの生存可能域を積極的に調整・拡大しようとする傾向こそが、センスメイキングの核心だと論じた。さらにハンネ・デ・イェハー(Hanne De Jaegher)との共著(2007年)では、社会的相互行為それ自体が独自の自律性を帯びる「参与的センスメイキング(participatory sense-making)」が提唱された。これは後述する統合モデルの橋渡しとなる。
二理論の接点と相違——何が対立し、何が補完するか
共通の地盤:脳内計算への還元主義への反論
両理論の最も根本的な共通点は、認知を「脳内の情報処理」へと還元することを拒否する点にある。拡張認知は認知の空間的拡張を、オートポイエーシスは生体の自律的組織化を前景化することで、いずれも古典的認知科学の「脳中心主義」を乗り越えようとする。
エヴァン・トンプソン(Evan Thompson)とステイプルトン(Stapleton)、シャビエル・バランディアラン(Xabier Barandiaran)らの研究は、2009年以降、この接近を精緻化してきた。トンプソンらは「単なる拡張(mere extension)」と「取り込み(incorporation)」を区別し、外部要素が主体の自律的パターンに深く統合されてはじめて、真の意味での拡張が生じると論じた。バランディアランはさらに、習慣を「自己維持的な感覚運動協応パターン」として捉え、外部世界を含む行為のまとまりが軽度の自律性を帯びうることを示した。
核心的相違:「どこまで広がるか」と「なぜ価値づけるか」
しかし相違も深い。マーク・ローランズ(Mark Rowlands)が指摘するように、エナクティヴィズムと拡張認知の類似は表面的であり、差異はより深部に存在する。
拡張認知が問うのは「どの外部要素が認知過程を構成するか」——信頼性・アクセス容易性・行動への因果的寄与が評価基準となる。これに対してオートポイエーシス系の議論が問うのは、「何が自律的な認知者を成り立たせるか」——自己維持・適応性・価値づけ・脆弱性が中心概念となる。
ディ・パオロが拡張認知に向けた批判の核心はここにある——境界を壊した後、いったい「規範・価値・主観性の中心」をどこに置くのか。外部に「溶解」した認知主体は、誰が責任を引き受け、誰が傷つき、誰が意味を生み出すのか。
この問いに答えるためには、境界を一枚岩に見ることをやめる必要がある。
三層統合モデル:境界と規範性の両立
両理論の補完関係を活かすために、本稿は境界を三層に区別するモデルを提案する。
第一層:生体の存在論的境界 生命としての自律系が維持する、最小限の主体性の基盤。オートポイエーシス理論が記述する層である。この層は生存・価値づけ・脆弱性の源泉であり、どれだけ技術が高度化しても、ここなしに「主体」は成立しない。
第二層:課題遂行の認知的境界 特定の課題において、外部資源との信頼的カップリングを通じて動的に広がる認知の境界。拡張認知が記述する層であり、ノート・言語・AI・義手がここに参加する。この境界は課題ごとに異なり、文脈依存的に形成・解体される。
第三層:制度・プラットフォームの社会技術的境界 第二層の結合を可能にし、同時に条件づける権力・経済・制度の層。ノートとスマートフォンは同じ「外部記憶」ではない——後者は企業・サーバー・法制度・データ収集という非対称なネットワークに埋め込まれている。日本語圏のSTS(科学技術社会論)研究が強調するように、主体性は制度条件から切り離せない問題でもある。
この三層モデルから導かれる主体性の定義は次のように定式化できる——「オートポイエティックかつ適応的な生体を核としつつ、習慣・言語・道具・制度・他者との結合を通じて課題特異的に外部を取り込み、なお規範の最終源泉を保持する多層的過程」。
三つの事例から見る主体性の再編成
事例1:感覚フィードバック付き上肢義手と身体化
感覚フィードバック機能を持つ上肢義手の研究は、拡張認知と身体化の交差を最もよく示す事例の一つである。近年のレビューは、義手の身体化(embodiment)を所有感(sense of ownership)と行為主体感(sense of agency)の組み合わせとして整理している。
拡張認知の観点からは、義手は「外在的デバイス」ではなく、操作・感覚・予測のフィードバックループに組み込まれることで、身体図式(body schema)の一部となりうる。ただし重要なのは、この「取り込み」が装置側の機能だけでは成立しないという点だ。バランディアランの枠組みで言えば、外部器具は自己維持的な感覚運動習慣に編み込まれてはじめて真に「取り込まれる」。
したがって、義手使用者の主体性は「義手の性能」ではなく、「生体とデバイスの間に形成された習慣的結合の質」によって規定される。主体性は装置に移るのではなく、取り込みに成功した結合として強化される。これはリハビリテーション設計に対して明確な示唆を与える——機能的適合だけでなく、身体図式への統合プロセスを支援することが本質的な課題である。
事例2:生成AIとの協働コーディング——拡張と自律化バイアスの緊張
GitHub Copilotを用いたフィールド実験では、AIとの協働によってタスク完了速度や週次完了タスク数が向上することが示された。生成AIは外部記憶・コード生成・探索といった認知的負荷を肩代わりし、拡張認知の定式に見事に当てはまるように見える。
しかし批判的思考研究と自動化バイアス(automation bias)研究は、別の側面を浮かび上がらせる——AIへの高度な信頼は、認知的努力の節約をもたらす一方で、判断の規範的中心を揺るがす可能性がある。アウトプットを検証しない、代替案を検討しない、エラーを見逃す——これらは「主体性の委譲」に伴うリスクである。
現在の生成AIをオートポイエティックな主体とみなすことは困難である。AIは自らの存立条件を自己産出せず、適応的センスメイキングを持たない。つまり責任の帰属先は依然として人間側に残る。拡張された認知が成立しても、拡張された責任主体が直ちに成立するわけではない——この非対称性が、AI協働倫理の核心問題となる。
必要なのは「reflective coupling(反省的結合)」という態度である。AIの出力を受け入れながらも、それを批判的に問い返す習慣的能力を、どのように設計・教育を通じて維持するかが問われている。
事例3:キープ(khipu)——文化的記憶の外在化と共同体的意味
アンデスのキープは、色・撚り・結び・触覚を通じて意味を担う三次元的記録媒体である。個体の内部ではなく、人工物と共同体的技能に認知が分散する典型例だ。
しかし重要なのは、キープの意味が「物」単独に宿るのではないという点である。その意味解読は、共同体が維持する実践・制度・作法に依存する。オートポイエーシスの観点から見れば、媒介物としてのキープは、生体主体が歴史的・社会的に作り上げた意味生成の場として機能する。
文化的外部記憶は、主体を消すのではなく、主体性の歴史的・共同体的条件を可視化する。また、デジタル化・グローバル化によってキープの実践的文脈が失われることは、単なる「情報の喪失」ではなく、「センスメイキングの場の消失」として理解される必要がある——これは文化遺産保護の問題を認知科学的に再定義する視点である。
三事例を比較すると、共通するパターンが見えてくる。主体性は「個体内部」から始まるわけでも「外部ネットワーク」へ全面的に分散するわけでもなく、生体の自律性を核として、外部足場と共同実践を取り込みながら再組織化される。この再組織化が深いほど、外部要素は単なる道具ではなく、主体の行為条件そのものになる。
倫理的含意——「主体の拡張」は「責任の移譲」を意味しない
本稿の統合モデルから導かれる最も重要な倫理的含意は、主体性の外部的拡張は、責任の自動的な分散・移譲を意味しないという点である。
義手の失作動、AIの生成誤り、文化的媒介物のアクセス制限——これらの問題において、責任の最終的帰属は依然として生体的・社会的に定位される必要がある。「システムが判断した」という言説は、第三層(制度・プラットフォーム)の非対称的権力構造を不可視化する危険を孕む。
プラットフォーム企業によるデータ収集、AIシステムへの認知的依存、補助技術へのアクセス格差——これらはすべて、主体性の条件を規定する制度的問題として、法・医療倫理・障害学と接続して議論される必要がある。三層モデルは、こうした批判的分析の枠組みを提供する。
まとめ:主体性の再定義と今後の問い
本稿の議論を整理する。拡張認知は「主体がどこまで認知的に広がりうるか」を示す理論であり、オートポイエーシスは「なぜその主体がそもそも価値づけと自己維持をもつのか」を示す理論である。両者は競合関係ではなく、境界の拡張と規範性の基礎づけを分担する補完関係として読むことが最も生産的だ。
三層統合モデルに基づく主体性の定義——「オートポイエティックかつ適応的な生体を核としつつ、習慣・言語・道具・制度・他者との結合を通じて課題特異的に外部を取り込み、なお規範の最終源泉を保持する多層的過程」——は、義手の身体化、AI協働、文化的記憶という異なる事例に対して一貫した分析枠組みを提供する。
主体性は、もはや「内面」の同義語ではない。しかし同時に、それは単なるネットワーク効果でもない。自己維持する生体が、文化・技術・社会との絡み合いのなかで世界を意味あるものとして立ち上げる、その多層的な実践として定義されるべきである。
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