汎用人工知能(AGI)の実現に向けて、従来のディープラーニングとは異なるアプローチが注目を集めています。その中でも特に有望視されているのが、脳の情報処理原理に基づく予測処理理論です。この理論は、人間の脳を「予測マシン」として捉え、内部モデルによる予測と実際の観測との誤差を最小化することで知能を実現するという考え方です。本記事では、予測処理理論の基礎概念から具体的な実装事例まで、脳型AI研究の最新動向を包括的に解説します。
予測処理理論と自由エネルギー原理の基礎概念
予測処理理論の核心思想
予測処理理論(Predictive Processing)は、人間の脳を単なる情報処理装置ではなく、能動的な「予測マシン」として理解する革新的な枠組みです。この理論によれば、脳は常に内部の生成モデルに基づいて感覚入力を予測し、実際の観測とのズレ(予測誤差)を最小化するように動作します。
この理論の中核となるのが、カール・フリストンによって提唱された自由エネルギー原理(Free Energy Principle, FEP)です。FEPでは、生体やエージェントは変分自由エネルギー(観測と内部モデルの不一致の尺度)を最小化することで、環境の不確実性や「驚き」を低減し、整合的な内的状態を維持するとされます。
階層的予測コーディングの仕組み
予測処理理論とFEPは、階層的予測コーディング(Hierarchical Predictive Coding)の考え方に基づいています。脳を階層構造のベイズ推論システムとみなし、各階層が下位の階層の状態を予測します。重要なのは、予測誤差のみが上位へ伝搬することで、効率的な符号化と推論を実現している点です。
この仕組みにより、脳は空間的・時間的にスケールの異なる特徴を扱い、長期的な予測やプランニングを可能にしています。上位レベルは抽象的な仮定に基づき下位レベルの状態や感覚入力を予測し、下位レベルとの誤差のみが上位に伝えられることで、各層が自己組織的に内部表現を調整するのです。
能動推論による知覚と行動の統合
この枠組みを知覚と行動に拡張したのが能動推論(Active Inference, AIF)です。能動推論では、エージェントは予測誤差を減らすために二通りの方法を取ります:
- 知覚によって内部モデル(信念)を更新し予測を観測に近づける
- 行動によって環境を変化させ観測を予測に近づける
このように知覚と行動を統一的に扱い、いずれも驚き(自由エネルギー)の低減手段とみなす点が予測処理理論の特徴です。例えば、自分の腕が上がっていると予測したのに実際は下がっていた場合、エージェントは信念を改める(腕は下がっていると知覚を更新する)か、あるいは腕を実際に上げる(行動で環境を変える)ことで不一致を解消します。
予測処理型AGIアーキテクチャの設計特徴
階層的生成モデルと予測誤差フィードバック
予測処理型のAGIアーキテクチャは、脳の構造にならい階層的な生成モデルと予測誤差フィードバックの機構を備えています。上位レベルは抽象的な仮定に基づき下位レベルの状態や感覚入力を予測し、下位レベルとの誤差(予測と観測の差分)のみが上位に伝えられます。
このトップダウン予測とボトムアップ誤差のループにより、各層が自己組織的に内部表現を調整します。こうした階層構造により、空間的・時間的にスケールの異なる特徴を扱ったり、長期的な予測(プランニング)を行ったりできるようになります。
動的でオンライン学習可能な構造
予測処理に基づくアーキテクチャは、静的なディープラーニングモデルとは一線を画す動的でオンライン学習が可能な構造になっています。学習手法としては、予測誤差や自由エネルギーを損失関数として勾配降下や変分推論でパラメータを更新するのが一般的です。
特に能動推論では期待自由エネルギーを将来にわたり最小にするよう行動を選択する仕組みも提案されており、これは内在的な報酬に基づく強化学習に似た特性を持ちます。また、一部の実装では誤差逆伝播(バックプロパゲーション)を予測コーディングで近似する研究もあり、ニューロンの局所計算で学習が実現可能であることが示唆されています。
知覚と行動の統合設計
アーキテクチャ上の重要な設計要素として、知覚系と運動系が分離せず一体となって「予測誤差の低減」という共通目的に向かう点があります。内部モデルによる予測生成だけでなく、予測に従った行動選択(政策)が組み込まれており、内部モデルが「望ましい状態(目標)」を予測し、その予測と現状のギャップが行動方針を駆動する設計となっています。
これによりエージェントは試行錯誤ではなく推論に基づく行動をとり、未知環境でも自律的かつ柔軟に適応できると期待されています。
主要な実装事例とプロジェクト
能動推論エージェント(自由エネルギー原理)
カール・フリストンらのグループは、能動推論に基づく汎用エージェントの枠組みを提唱しています。このアーキテクチャでは階層的生成モデルと変分ベイズ推論により状態推定を行い、予測誤差を最小にするよう行動を決定します。
実装例として、Pio-Lopezら(2016)は二足歩行ロボットPR2の腕を対象に7自由度アームの能動推論制御を実証し、視覚・固有受容感覚を統合して目標指向動作を実現しました。またNetwork-based Active Inference (NetAIF)は、ランダム動的ネットワークとFEPを活用し、事前の大規模学習なしにロボットがターゲット追従やバルブ操作などのタスクで自律適応することに成功しています。
階層型予測コーディング・ネットワーク
階層的予測コーディングの考えを取り入れたディープラーニングモデルの代表例がPredNet(Lotterら, 2016)です。これはニューラルネットワークによる深層予測コーディングアーキテクチャで、各層が局所的な未来フレーム予測を行い、予測との差分のみを上位層へ伝達します。
PredNetはビデオの次フレーム予測というタスクを通じて無教師学習で視覚世界の構造を学習し、物体の姿勢や動きといった潜在パラメータを内部表現として獲得できることが示されました。自動運転シーンの実写動画に適用した際には、自車のステアリング角度を推定するのに有用な特徴表現を習得したとの報告もあります。
Fluid Emergent Reasoning Engine (FERE-CRS)
Thomas Devittら(2025)は、能動推論を中核に据えた新しい認知アーキテクチャFERE-CRSを開発しました。FERE-CRSは「流動的創発推論エンジン」の名の通り、複雑な推論課題に適応的に取り組むことを目指した設計です。
このアーキテクチャのユニークな点は、複数の異種AIコンポーネント(例えば大規模言語モデルを汎用認知エンジンとして組み込むなど)をメタ推論エージェントが統括する点です。変分自由エネルギーの直接計算が困難なため認知レゾナンススコア (CRS) と呼ばれるヒューリスティックな指標を導入し、これを各コンポーネント間の共通通貨として意思決定を行います。
実験では、複雑な推論課題においてFERE-CRSエージェントが従来型のベースライン(検索強化型の大規模言語モデル)よりも高品質な説明を生成し、効率も5倍向上したと報告されています。
千の脳理論に基づくアーキテクチャ
ジェフ・ホーキンスらの「千の脳理論」は、予測処理に類似した観点から知能を捉えるアプローチです。大脳新皮質には約15万ものコラム(細柱構造)があり、それぞれが独立した学習マシンとして機能していると主張しています。
従来のディープラーニングが単一の大規模モデルで世界を表現しようとするのに対し、千の脳理論では多数の小規模モデル(地図)が並列に世界を表現していると考えます。この理論に基づきホーキンスの企業Numentaは、Hierarchical Temporal Memory (HTM) と呼ばれるアーキテクチャを開発し、時系列データの異常検知などで成果を上げています。
近年開始されたThousand Brains Projectでは、コラム単位のセンサモーターモジュールを多数組み合わせてロボットの指先操作など複雑なタスクを学習させることが構想されています。
研究者・機関と応用分野
主要な研究者・研究機関
理論面では、自由エネルギー原理と能動推論の提唱者であるKarl Fristonが中心的人物です。フリストンはロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ (UCL) を拠点に、この理論を用いた認知・行動の統一モデルを数多く発表しており、彼のグループ(Thomas ParrやGiovanni Pezzuloら)による研究がロボティクスへの応用などにも繋がっています。
AI研究の側面では、DeepMindやGoogle Brainなど大規模研究組織も関連する取り組みを行っています。DeepMindは脳科学にインスパイアされたモデル(例: GQNや強化学習での世界モデル)を開発しており、創業者のDemis Hassabisも「脳の原理を取り入れることがAGIへの鍵」と公言しています。
また、ジェフ・ホーキンス率いるNumenta社は民間企業として脳理論に基づくAGIアーキテクチャの開発を先導しています。その他、Chris BuckleyやBeren Millidge、Anil Sethら英国サセックス大学のグループも能動推論と深層学習の橋渡し研究で知られています。
応用分野と想定タスク
ロボティクス分野では、不確実な環境下でのロボット制御が重要な応用分野となっています。能動推論に基づく手法は、ロボットの自己位置推定、マニピュレーション、ナビゲーションなどで有望とされており、センサフュージョン(視覚と触覚の統合など)やモーター制御の調整にも応用可能です。
強化学習・意思決定分野では、予測処理に基づくアーキテクチャが新たな視点をもたらしています。従来の強化学習が環境との試行錯誤に報酬を組み合わせた学習であるのに対し、能動推論エージェントは内在的な期待自由エネルギーの低減を目的関数として行動を選択します。
認知モデリングにおいては、人間の知覚・認知を説明する仮説として、錯覚や知覚学習といった現象のモデル化に応用されています。AGIアーキテクチャにおいても、人間の認知プロセスを再現・解明するための計算モデルとして用いる試みがあります。
汎用学習と推論では、FERE-CRSのような取り組みが予測処理理論を高次の推論課題(論理パズルの解答、計画立案、言語理解など)に応用するものとして注目されています。
まとめと今後の展望
予測処理理論に基づくAGIアーキテクチャは、従来のディープラーニングとは根本的に異なるアプローチで汎用人工知能の実現を目指しています。脳の予測処理原理を活かした階層的生成モデル、知覚と行動の統合、動的なオンライン学習などの特徴により、適応性・頑健性・説明可能性を兼ね備えたAIの構築が期待されています。
能動推論エージェント、階層型予測コーディング・ネットワーク、千の脳理論、FERE-CRSなど、多様な実装アプローチが提案され、それぞれがロボティクスから高次認知まで幅広い応用可能性を示しています。神経科学に裏打ちされたこの枠組みは、単なる技術的な改良ではなく、知能そのものの理解を深める理論的基盤を提供しています。
今後、これらアーキテクチャの実用展開と検証が進めば、従来のAIでは困難だった未知環境での自律的適応や、人間のような柔軟な推論能力を持つエージェントの実現に向けた重要なステップとなるでしょう。予測処理理論に基づくAGI研究は、まさに次世代人工知能の核心技術として、今後さらなる発展が期待される分野です。
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