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量子認知モデルと脳内量子過程の関連性|意識・自由意志の最新研究

はじめに

人間の意識や意思決定のメカニズムは、科学における最大の謎の一つです。近年、量子力学の原理を応用して人間の認知を理解しようとする研究が注目を集めています。

本記事では、心理学的な「量子認知モデル」と、神経科学的な「脳内量子過程仮説(Orch-OR理論)」という二つのアプローチを紹介します。これらは一見異なる領域ですが、いずれも「人間の心的現象に量子の原理が関与しているかもしれない」という可能性を探る試みです。意識の本質、自由意志の存在、心身問題といった哲学的テーマとも深く結びついています。

量子認知モデルとは?人間の意思決定を説明する新しい枠組み

古典的確率論では説明できない認知現象

量子認知モデルは、人間の判断や意思決定に量子力学の数学的枠組みを応用した理論です。Jerome BusemeyerやEmmanuel M. Pothosらが提唱したこのアプローチは、従来の古典的確率論では説明困難だった認知現象を統一的に理解することを目指しています。

重要なのは、量子認知モデルは「脳内で量子計算が行われている」と直接主張するものではない点です。あくまで現象論的・機能的レベルで量子論の形式を借りて人の認知を記述しているのです。

量子モデルで統一的に理解できる心理効果

量子認知モデルが説明する代表的な現象として、以下が挙げられます。

結合の誤謬(conjunction fallacy) ある人物が「銀行員でフェミニストである」確率が「銀行員である」確率より高いと判断してしまう現象です。論理的には単一事象より複合事象の方が確率が低いはずですが、人はしばしば逆の判断を下します。量子モデルでは、事象が文脈に応じて重ね合わせ的に評価されることでこの現象を説明できます。

確実性効果の違反(disjunction effect) 経済状況が「好転する」場合や「悪化する」場合には投資すると決めていた人が、「不確かな場合」になると投資を渋るという現象です。量子モデルでは、不確定な状況下では心理的状態が変化し干渉が生じるため、このような選好逆転が起こり得ると説明します。

質問順序効果 アンケートで質問の順序を入れ替えると回答が変わる効果です。量子モデルでは、異なる質問は互いに非可換な測定として表現され、順序による干渉効果を定量的に予測できます。実際、量子認知モデルは質問順序効果について新たな定量的予測を提示し、実験によって実証された例もあります。

これらの現象は、古典的枠組みでは個々に別の仮定を置いて説明していましたが、量子モデルでは「文脈に依存して確率が変化する」という原理の下に自然に位置づけられます。統計的にも、量子アプローチは古典モデルより仮定パラメータが少なく、説明力が高いことが報告されています。

脳内量子過程仮説とOrch-OR理論の概要

微小管における量子コヒーレンスと意識の関係

Orch-OR理論(Orchestrated Objective Reduction theory)は、物理学者Roger Penroseと麻酔科医Stuart Hameroffによる量子脳理論の代表格です。この理論は「意識は脳内の量子状態の客観的崩壊によって生じる」という大胆な仮説を提示しています。

具体的には、ニューロン内の微小管(マイクロチューブル)における量子的コヒーレンス状態が意識の担い手だと想定されます。微小管を構成するチューブリンタンパク質が量子的な二状態を取り得るとし、それらが多数集合で量子的に同期することで脳全体にわたる統一的な量子状態が形成される、と仮定されています。

Penroseは、量子重力効果による自発的な波動関数の崩壊という未解明の物理メカニズムを提唱しました。Hameroffはこれに「ニューロン内部の微小管で量子計算が行われ、シナプス入力などによって量子状態がオーケストレーションされている」というシナリオを加えました。

このモデルでは、脳全体でコヒーレントな量子状態が一定時間維持されることで情報処理が行われ、やがてその量子状態が一斉に崩壊した瞬間に意識的な経験が生起するとされています。

批判と反論:デコヒーレンス問題への応答

Orch-OR理論には当初から懐疑的な視線が注がれてきました。最大の批判は、脳内の量子コヒーレンスは温度が高くデコヒーレンスが瞬時に起きてしまうため維持不可能、というものです。物理学者のテグマークは、マイクロ秒オーダーで量子状態は壊れてしまうと試算しました。

しかしHameroffらは、生体ならではの解決策を提示しています。微小管は中空の円筒構造であり、その内部空間や整列構造が外界の雑音から量子状態を保護する可能性があります。さらに、ニューロン同士のギャップ結合によって複数ニューロンの微小管が連結し、大きな量子コヒーレンス系を形成することでデコヒーレンス時間を延長できると仮定されています。

理論面では、Fröhlichの示唆した遠赤外振動による高温でのコヒーレンス維持という非平衡熱力学モデルも援用されています。実際、テグマークの試算に対しては「生体は熱平衡ではなくエネルギーが絶えず供給される非平衡系であり、むしろ人体温はコヒーレント状態を保つのに適している可能性がある」との反論も出されています。

実験的エビデンスの最新動向

微小管の量子効果を支持する研究

近年、微小管量子仮説を支持する実験的知見が報告されています。

Babcockら(2024年)は、試験管内で精製した微小管試料において室温での量子的なスーパーラディエンス(超放射)現象を検出しました。しかも複数の微小管を繋げた方がその効果が増大することが示されました。

Bandyopadhyayらの研究グループは、培養神経細胞で微小管振動を刺激すると隣接ニューロン間で同調した振動状態が広がり、膜電位の調節を担っていることを観測しました。これは微小管が複数ニューロンに跨る量子振動モードを持ち、神経活動と相互作用し得る可能性を示唆しています。

さらに興味深いことに、揮発性の全身麻酔薬が微小管の量子光学的な応答を減衰させるとの報告もあります。麻酔薬は受容体タンパク質への特異的な化学結合ではなく疎水的相互作用によって作用する可能性が指摘されてきました。意識の物質的担体が微小管など疎水性ポケットを持つ分子であり、麻酔はそこに吸着して量子コヒーレンスを乱すのだとすれば合理的だ、というのがHameroffらの主張です。

脳内量子もつれの検出可能性

Kerskens と Pérezらの研究(2022-2023年)では、人間の脳内にマクロな量子もつれ状態が存在する可能性を示唆する実験結果が得られました。

彼らはMRI装置内で特殊なプロトコルを用い、通常の信号とは異なる量子もつれ由来の信号を抽出することを試みました。その結果、被験者の心拍に同期したMRI信号成分が検出され、それが覚醒時には強く現れ、深い睡眠時に消失することが見いだされました。

さらにその信号強度は、被験者の短期記憶課題の成績と相関していました。研究者らは、この信号が脳内の量子もつれ状態がMRI装置の磁場中で水分子の核スピンと相互作用した結果生じた可能性が高いと解釈し、意識や認知機能に量子的プロセスが関与している直接的な証拠になり得ると主張しました。

もっとも、この大胆な解釈には異論もあり、現時点で決定的な代替説明は提示されていません。脳内量子過程の存在を支持する実験的エビデンスが蓄積しつつある一方で、依然として議論は平行線をたどっています。

哲学的含意:意識・自由意志・心身問題

意識のハードプロブレムへの新たなアプローチ

量子モデルは、哲学的にも様々な論点と絡み合います。Orch-OR理論は「意識とは物理的な量子現象である」という解答を提示しました。

古典的な脳科学では意識の統一的な質的体験(クオリア)を説明することが難しく、「ハード・プロブレム」として問題提起されています。しかしPenroseとHameroffは、脳全体にまたがる量子的コヒーレンス状態こそが経験の統一性を実現すると主張します。

意識内容に対応する脳活動は空間的に離れたニューロン集団に分散していますが、それらが一つの量子的実体として結合しているとすれば、「なぜそれらが統合された一つの主観として現れるのか」という問題に答えうるというわけです。

Penroseは、アルゴリズムでは得られない洞察や理解を人間の意識が可能にしていることから、「人間の意識には非計算的な物理過程が関与している」と論じました。彼はゲーデルの不完全性定理などを論拠に、意識は単なる計算では説明できず、量子重力のような新しい物理現象を介在させる必要があると提唱しました。

量子非決定論と自由意志の可能性

自由意志の問題についても、量子論的アプローチは新たな視点を提供します。古典物理学的な決定論の下では、脳内の全ての出来事は過去の状態から完全に決定づけられており、人間の自由意志は幻想ではないかという懸念が生じます。

しかし量子力学は本質的な非決定論を導入しました。個々の量子事象は原理的に確率的であり、完全には予測不可能です。この量子的揺らぎのおかげで、世界は厳密なラプラス的決定論ではなくなり、真に新しい事態が生起し得ると期待する向きもあります。

Hameroffは「量子脳生物学は人間の自由意志を救いうる」と述べ、量子脳モデルによって機械的な決定論を乗り越えられると主張しました。

Henry Stappは量子論の枠内で「精神的な意思が量子状態の選択に影響を及ぼしうる」とのモデルを提案しています。彼は量子測定における観測問題において、観測者の意識が波動関数の収縮に関与するという見解を発展させ、注意や意図といった精神作用が量子的な遷移確率に微妙なバイアスを与え得ると論じました。

ただし、完全に偶然な揺らぎによって行動が左右されるだけでは、それは主体的な選択とは言えないという根本的な疑問も残ります。自由意志を成り立たせるには、適度な不確定性とともに、意図に沿ったバイアス付けが必要であり、この点は依然明確な解答がありません。

心身問題と二面性理論

心身問題の文脈では、量子アプローチは二元論とも一元論とも取れる独特の立場を示します。Penroseは心的な体験を担う要素として「パンプロトサイキズム(汎原意識主義)」的な見解に触れています。

パンプロトサイキズムとは、意識そのものではないにせよ意識の前駆的性質が物理世界の根源に備わっているという考え方です。Orch-OR理論では、脳内の量子状態そのものに経験の主体となる性質を潜在的に認めることで、心を物質から「創発」させるのではなく、物質のレベルで既に心的側面があると仮定しています。

これは伝統的なデカルト的二元論とは異なり、物質と心の二面性アプローチに近い考えです。すなわち、一つの基本的実在があり、それが物理的側面と心的側面という二つの姿を取る、という見方です。

この立場に立てば、意識のハード・プロブレムも、「主観と物質は根源的に一体であり、片方から他方を創出するものではない」とすることで原理的には回避できます。しかし具体的にどのような物理過程がどのような主観をもたらすのかという対応の謎は依然残っています。

まとめ:量子と心の接点を探る挑戦

量子認知モデルと脳内量子過程は、アプローチも目的も異なる領域ですが、「人間の心的現象に量子の原理が関与しているかもしれない」という点で接点を持っています。

量子認知モデルは実験心理学のデータに基づき定式化され、人間の意思決定が古典論理ではなく文脈依存的・重ね合わせ的な性質を持つことを示唆しました。これは量子力学的な脳プロセスの存在を直接証明するものではありませんが、「もし脳が量子的に働いていたら整合的に説明できる」という一連の現象群を提示した意義は大きいでしょう。

一方Orch-OR理論は、意識という科学最大の難問に物理学から光を当てようとする試みであり、その着想は新しい実験手法や学際的議論を活性化させています。麻酔作用や脳内エンタングルメント検出の研究は、「もし意識が量子現象ならどうなるか」という問いに実験的アプローチが可能なことを示しました。

現時点で両者の間に確固とした橋が架かったとは言い難いものの、脳内の量子状態が認知の非古典的パターンを生み出している可能性は完全には否定できません。最終的な答えが得られるまでには、更なる理論の洗練と実証研究の積み重ねが必要です。

量子の原理が脳と心の謎にどこまで迫れるのか――その可能性を探る挑戦自体が、哲学・神経科学双方にとって刺激的なフロンティアであると言えるでしょう。

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