はじめに:認知を「生成する過程」として捉え直す
私たちの脳はどのように世界を理解しているのでしょうか。近年の認知科学では、脳を「予測マシン」として捉える階層的予測処理モデルが注目を集めています。この理論を提唱したアンディ・クラークは、脳が常に未来の感覚入力を予測し、予測と現実のズレ(予測誤差)を最小化することで世界を理解すると説明します。
一方、20世紀の哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、世界を静的な物質の集合ではなく、絶えず生成変化する**プロセス(過程)**として捉える独自の哲学を展開しました。
本記事では、この二つの理論が持つ共通点と相補性を探り、認知を「生成的な過程」として統合的に理解する新しいモデルの可能性について考察します。この統合によって、意識・主体性・創造性といった人間の根源的な問いに、より豊かな答えが見えてくる可能性があります。
予測脳理論の核心:階層的予測処理モデルとは
トップダウン予測とボトムアップ誤差の往復運動
クラークの予測処理モデルの最大の特徴は、脳内に多層の階層構造を想定している点です。高次の脳領域は抽象的な概念や期待を持ち、それを下位の感覚レベルへの予測として送り出します。この予測と実際の感覚入力との差分(予測誤差)だけが上位にフィードバックされ、脳はこの誤差を最小化するよう内部モデルを更新し続けます。
この仕組みは、私たちの知覚が単なる受動的な入力処理ではなく、能動的な仮説検証のプロセスであることを示唆します。例えば、暗闇で物音がしたとき、私たちは「風か、猫か、侵入者か」と無意識に予測を立て、追加の感覚情報でその予測を検証しています。
行動も予測の一部:アクティブ・インフェレンス
さらに注目すべきは、このモデルが知覚と行動を統一的に説明できる点です。脳は予測誤差を減らすために二つの戦略を持っています。一つは内部モデルを更新すること(知覚の修正)、もう一つは行動を起こして予測を現実化すること(アクティブ・インフェレンス)です。
例えば、「コップに水がある」という予測がある場合、手を伸ばしてコップを持つことで、その予測を確認できる感覚入力を能動的に作り出します。この視点では、私たちの行動自体が予測誤差を削減するための手段となります。
予測処理モデルの哲学的課題
しかし、この理論には哲学的な問題も指摘されています。予測処理モデルを極端に解釈すると、私たちは「脳内で構築された仮想現実」の中に閉じ込められており、世界そのものには決して触れられない、というカント的な主観主義に陥る危険性があります。
クラーク自身は身体や環境の役割も認めていますが、知覚が本質的に「脳が生み出す制御された幻覚」であるという表現は、私たちと世界との直接的な関わりを軽視しているように見えます。この限界を乗り越えるために、ホワイトヘッドのプロセス哲学が有効な補完となる可能性があります。
プロセス哲学の世界観:過程としての実在と関係性
世界は「物」ではなく「出来事」から成る
ホワイトヘッドのプロセス哲学の根本的な主張は、世界の基本単位は**静的な物質ではなく、動的な出来事(actual occasions)**であるというものです。机や椅子のような一見固定的な物体も、実は無数の微細な出来事の安定したパターンに過ぎません。
この世界観では、現実は絶えず生成変化する有機的な過程として捉えられます。各瞬間の経験は、過去の経験を受け継ぎ(「感受:prehension」)、それを統合して新たな現在を作り出すプロセスなのです。
因果的感受:世界との直接的な繋がり
ホワイトヘッドは、私たちの知覚に二つのモードがあると考えました。一つは鮮明な感覚像として世界を捉える「直観的知覚」、もう一つは身体的・直接的に世界の存在を感じ取る「因果的感受」です。
この「因果的感受」という概念は、予測処理モデルが見落としがちな側面を補います。それは、私たちが世界から直接的な影響を受け取っているという実在論的な視点です。知覚は単なる脳内の構成物ではなく、世界の因果的な力が身体を通じて流れ込んでくるプロセスでもあるのです。
主体は世界から生まれる
プロセス哲学のもう一つの重要な主張は、「主体は世界から創発する」という点です。カント哲学では「世界(現象)は主体の認知構造から生じる」と考えられましたが、ホワイトヘッドはこれを逆転させます。
主体(意識を持つ存在)は、宇宙全体の有機的なプロセスから派生する産物であり、世界の秩序や意味は主体に先立って客観的に存在している、という視点です。この世界観では、心は脳内に閉じた存在ではなく、常に環境・宇宙との関係性の中で捉えられます。
二つの理論の統合:認知を有機的プロセスとして理解する
過去経験の重要性という共通点
予測処理モデルとプロセス哲学は、過去の経験が現在を形作るという点で共通しています。
予測処理では、脳が過去の学習から統計構造を抽出し、それを「事前確率(プライア)」として内部モデルに蓄積します。この蓄積された知識が、現在の知覚を解釈するレンズとして機能します。
一方プロセス哲学では、あらゆる新しい経験は直前の経験を「感受(prehension)」することで生じるとされます。過去が現在に内在し、現在は過去の延長として生成されるのです。
両者とも、現在の認知は過去の積み重ねに本質的に依存しているという点で一致しており、認知を時間的プロセスとして捉える基盤を共有しています。
能動性と世界との相互作用
予測処理モデルが知覚を「能動的な仮説生成」として捉える点も、プロセス哲学の有機的世界観と調和的です。
予測処理における「アクティブ・インフェレンス」は、生物が環境に働きかけて予測を現実化する過程を説明します。同様に、ホワイトヘッドの哲学でも、各出来事は環境世界の影響を積極的に取り込み、それに応答することで成立します。
両理論とも、認知を環境との継続的な対話・相互作用として理解する点で共通しており、単なる一方向的な情報処理モデルを超えています。
階層性と創発の視点
クラークのモデルでは、脳内に多層の階層構造があり、高次レベルから低次レベルへの予測と、低次から高次への誤差信号が双方向に流れます。
ホワイトヘッドも、現実世界には階層的な構造があり、小さな出来事の集まりが大きな出来事(例えば生物個体)を構成すると考えました。人間の経験も、ニューロンレベルの無数の出来事に支えられています。
両者とも複雑系における階層構造と創発を重視しており、より包括的な認知モデルを構築する基盤となります。
統合モデルの概念図:世界過程に埋め込まれた予測システム
これらの接点を統合すると、次のような新しい認知モデルが浮かび上がります。
認知とは、過去から未来へと生成してゆく有機的な予測システムである。脳は単なる誤差計算機ではなく、世界過程に埋め込まれた存在であり、過去の世界を抱えつつ未来の可能性を試行する創発的プロセスである。
各瞬間の認知的出来事は、ホワイトヘッドの言う「コンクレッセンス(諸要素の凝集)」により、過去の物理的感受(ボトムアップ入力)と予測的な概念(トップダウン期待)が統合され、一つの「現在の経験」となります。
このモデルは、予測処理の計算論的精密さと、プロセス哲学の存在論的包括性を両立させ、心的現象をより豊かに説明できる可能性を持っています。
統合モデルが示唆する新たな認知観
意識:可能性への創造的な洞察
予測処理モデルでは、意識は「脳が生み出す制御された幻覚」として説明されることが多くあります。しかし統合モデルでは、この見方に世界からの直接的な因果的感受が加わります。
ホワイトヘッドによれば、意識は「現実にあるもの」と「可能態としてありうるもの」の比較・対照が行われるときに生起する現象です。これは予測処理における「予測と誤差の突き合わせ」に通じる部分があります。
統合モデルでは、意識とは無数の無意識的な予測過程の中に時折生じる、世界の可能性に対する創造的な洞察の瞬間だと位置づけられます。意識は単なる誤差低減の副産物ではなく、未来志向的な新奇性の創出や選択(自由意志)に関与する積極的役割を担うのです。
主体性:絶えず変容するプロセスとしての自己
予測処理モデル単体では、自己は「世界をモデル化するモデル」や「誤差最小化を図る推論主体」として記述されがちです。
しかしプロセス哲学の観点では、自己は固定した実体ではなく**「一連の経験的出来事の流れ」**です。各瞬間の主観的体験は、その瞬間が完了すると同時に対象化され、次の瞬間の主観へと引き継がれていきます。
統合モデルでは、自己は脳内だけで完結するのではなく、瞬間ごとに世界との関係から生起し、また次の瞬間には消えてゆくプロセスとして再定義されます。これは予測処理で内部表現が逐次更新される姿と平行的であり、「自己とは絶えず変容するプロセスそのもの」という動的自己像を提供します。
創造性と価値:誤差最小化を超えて
予測処理理論は基本的に「誤差(驚き)の最小化」という保守的・安定志向の原理で語られてきました。しかし生命や意識の振る舞いを見ると、必ずしも安定一辺倒ではなく、探究・成長・遊びといった創発的・積極的志向も見られます。
ホワイトヘッドは、宇宙の進化を「創造的前進」と呼び、生命はしばしば秩序だった安定よりも「より大きな強度(経験の深みや価値の高さ)」を求めると考えました。
統合モデルは、予測処理に創造性や価値追求の原理を組み込む余地を示唆します。単に誤差を減らすだけでなく、自ら驚きを求め創造的な経験を増やそうとする衝動を理論に含めることで、好奇心・探索・芸術的創造といった人間の高次な認知活動をより適切に説明できる可能性があります。
世界との関係性:二元論を超えて
統合モデルの最も重要な貢献は、心と世界の二元論的分断を克服することです。
予測処理モデルだけでは、心が一方的に世界像を生成しているように見えがちです。しかし統合モデルでは、世界が常に心に侵入し、心も世界を動かすという双方向の有機的プロセスとして心的現象を記述できます。
心的主体は、脳内に閉じた推論システムではなく、常に環境世界のダイナミズムに支えられ誘導される有機的存在です。この視点は、身体性認知科学やエナクティブ・アプローチとも共鳴し、より包括的な認知科学の基盤となる可能性を秘めています。
まとめ:新たな認知パラダイムへの道
アンディ・クラークの階層的予測脳理論とホワイトヘッドのプロセス哲学は、一見異なる領域の理論でありながら、「過去から未来へ生成していく心」という共通のビジョンで統合できる可能性を持っています。
本記事で論じた統合モデルは、認知を単なる誤差最小化の計算としてではなく、創造的で価値指向的な宇宙過程の一部として捉え返すものです。この視点から、以下のような新たな理解が得られます。
- 意識は、世界の可能性に対する創造的な洞察の瞬間である
- 主体性は、絶えず変容し世界との関係から生起するプロセスである
- 認知は、安定化だけでなく創造性や価値追求も含む多目的な営みである
- 心と世界は、二元論的に分離されるのではなく、有機的に相互浸透している
この統合的アプローチはまだ概念的段階にありますが、認知科学に新たなパラダイムを提供する可能性があります。予測処理の精緻なモデルとプロセス哲学の包括的な世界観を組み合わせることで、心と世界の関係性、意識の起源、主体性の本質といった根源的な問いに、より豊かな解答を導き出せるでしょう。
今後の課題は、この統合モデルを具体的な検証可能な仮説に落とし込み、実験的・数理的に精緻化していくことです。そのプロセスを通じて、単に脳内計算のモデルに留まらない**「世界の中の心」の科学**が発展していくことが期待されます。
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