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カレン・バラドのアジェンシャル・リアリズムとは?量子論から読み解くポストヒューマン倫理

アジェンシャル・リアリズムとは何か

フェミニスト理論家であり物理学者でもあるカレン・バラドは、その著書『Meeting the Universe Halfway(物質的な絡まり)』において、「アジェンシャル・リアリズム(agential realism)」という独自の理論枠組みを提唱しました。これは量子物理学とポストヒューマン思想、フェミニスト理論を結びつける大胆な試みであり、私たちが現実をどう捉えるか、そして倫理をどう考えるかについて根本的な問い直しを促すものです。

バラドの主張の中心には「エンタングルメント(絡まり合い)」の概念があります。彼女によれば、存在とは独立した個人の事柄ではなく、事物はもつれ合った関係の中から現れるとされます。つまり、あらゆる存在者は相互に依存し合い、人間と非人間を含む世界のあらゆる部分は切り離せない関係性のネットワークに組み込まれているのです。

アジェンシャル・リアリズムは、伝統的な西洋形而上学に対するラディカルな挑戦であり、存在論と認識論を切り離せないものとして捉える「オント=エピステモロジー(onto-epistemology)」の立場に立っています。この視点は、私たちが「知ること」と「存在すること」が本質的に絡み合っていることを示唆しています。

イントラアクション:関係性から生まれる存在

バラドが提唱する「イントラアクション(intra-action)」は、この理論の核心となる概念です。通常の「相互作用(interaction)」は、前もって独立に存在する主体同士が互いに作用することを前提とします。しかし、バラドの「イントラアクション」は、関係性そのものが先行し、そこから主体(行為者)や客体が共に現れることを意味します。

具体的に言えば、個々のエンティティ(人間や物など)はその関係の過程において初めて定まるのであり、関係に先立つ固定的な実体ではないということです。イントラアクションは、万物が常に影響を及ぼし合い、分かちがたく結びついている動的過程を強調する概念であり、絶対的な境界や独立性を想定しません。

このため、観測者(主体)と対象(客体)もあらかじめ分離して存在せず、両者は特定の実践(装置を含む観測行為)を通じて共に現象を形作るとされます。量子物理学における観測の問題がまさにこれを示しています。電子の位置や運動量は、観測という行為を通じて初めて確定するのです。

物質と意味の絡まり合い

アジェンシャル・リアリズムでは、「物質」と「意味」(言語や概念)を二分する考え方が否定されます。バラドは、現実世界において物質的なもの(マテリアル)と意味的・言説的なもの(ディスコース)は互いに独立しておらず、常に絡み合って共に生成すると論じます。

言い換えれば、「意味」は純粋に主観的・言語的な領域に閉じず、「物質」の配置や振る舞いと不可分に結びついて現れます。同様に、「物質」も人間の言説や社会的文脈から切り離された裸の実体ではなく、それが持つ意味や効果と一体なのです。

バラドはこれを「物質=意味(matter=meaning)のもつれ」とも表現します。世界の構成において物質的要因と意味的要因が互いに制約しあい、可能性を開いたり閉ざしたりするプロセスを強調しているのです。この視座では、科学的観測装置や実験手順といった物質-言説的実践そのものが、どのような現象が「顕現しうるか」を規定し、同時に何を排除するかを決定します。

主体と客体の二元論を超える

バラドの理論は、哲学における古典的な主体(主観)と客体(客観)の分離に根本的な揺さぶりをかけます。従来の考え方では、主体(観察者・認識する側)と客体(観察される対象)は明確に区別され、それぞれが独立に実在した上で相互作用すると考えられてきました。

しかしアジェンシャル・リアリズムでは、「現象そのものが基本単位」であり、主体と客体は現象内部の一時的な切り分け(エージェンシャル・カット)によって初めて現れます。ゆえに、主体と客体は相互に先立つことなく共起する関係的存在と位置づけられるのです。

バラドが重視する量子論的知見が、この視点の背景にあります。例えば、量子力学で有名な二重スリット実験では、観測行為によって光や電子の振る舞いが決定されます。ここで「観測者」と「粒子」は分離した二者ではなく、一つの量子的現象を構成する要素なのです。

ニールス・ボーアは、測定装置(観察の仕方)を抜きに粒子の性質を語ることはできないと述べました。バラドはこの考えを発展させ、測定装置や観察者も含めた全体(現象)においてのみ物理的実在が定まると主張します。つまり、客観的な対象が主観から独立して存在し性質を持つのではなく、主観・客観の境界自体が特定の相互作用の中で生成するのです。

バラドは「客観性とは、身体(物質)に刻まれた痕跡への責任を引き受けること」だと再定義します。観察者である私たちは、自らが世界に対して行う切り分けや発話・行為によって何が現れ何が現れないかを決定づけています。したがって、自分たちが参与している世界の構成に対して責任を負うことこそが、新たな意味での客観性であり倫理的態度であるというわけです。

ポストヒューマン倫理:責任と応答能力

バラドの存在論的転回は、倫理的思考に深い影響を与えています。彼女は倫理を、人間中心の規範体系や主体の意図に基づく行為論から解放し、世界そのもののあり方に内在するものとして捉え直します。

まず「エージェンシー(行為能力)」について、バラドはそれを伝統的な人間中心主義的な「主体性」から切り離します。アジェンシャル・リアリズムにおいて、エージェンシーは特定の主体(例えば人間)に所属する属性ではなく、諸存在のイントラアクションを通じて現れる作用そのものです。

人間だけでなく非人間的なもの(動物、モノ、環境など)も含め、あらゆる物質には相互に影響し変化をもたらす力が備わっており、それらの関係性の構成(絡まり合い)そのものがエージェンシーの発現だとされます。したがって、人間の意図や主体性だけに基づく狭いエージェンシー観を超えて、物質そのものが創発的・能動的であるという見方が提示されます。

バラドはエージェンシーを語る際に「応答能力(レスポンス・アビリティ, response-ability)」という言葉を用います。これは単に「何かを行う力」という意味に留まらず、「応答しうること」「責任を引き受け応答する能力」を強調した造語です。

彼女によれば、エージェンシーとはある状況において応答し、世界の具体的構成に関与する能力であり、それは人間だけの特権ではなく現象に関与する全ての存在に開かれた概念なのです。この見地からは、倫理とは単に他者に正しく対応することではなく、自らが関与する世界の在り方そのものに対して応答責任を負うことだと定義し直されます。

バラドは「倫理とは、もはや自分とは切り離された他者への正しい応答の問題ではなく、我々が一部をなす生成的な関係性(絡まり合い)に対する責任と応答義務の問題である」と述べています。私たちはその絡まりの一部として常に世界に作用を及ぼし、同時に影響を受けてもいるため、自らが参加している現実の再構成について説明責任を持たなければならないというわけです。

相互依存性の再定義

バラドの議論における相互依存性(interdependence)は、単なる「別個の存在同士がお互いに依存し合う関係」という従来の理解を超えて、存在そのものが関係性によって成り立つというより根源的な意味を持ちます。

バラドは「もつれ合っているとは、単に別々の実体同士が絡み合っているということではなく、独立した自己完結的な存在を欠いているということである」と述べています。すなわち、「存在」は個人単位で完結するものではなく、常に他者や環境との関係の中でしか存在し得ないということです。

例えば、私たち人間は生態系や社会システムとの関係抜きには語れませんし、原子レベルにまで遡っても、電子や陽子はそれらを測定する装置や他の粒子との相互作用抜きに固有の性質を持ちえません。同様に、バラドは時間と空間さえも絶対的な容器ではなく、各イントラアクション(相互関係的な作用)によって繰り返し再構成されると指摘します。

このような相互依存(もつれ合い)の視点から見ると、「自己」と「他者」の概念も刷新されます。バラドは「他者は単に私たちの皮膚の外側にいるのではなく、骨や腹の中、心臓の鼓動や細胞の核の中にさえ潜在的に宿っている」と述べています。

電子同士の干渉からヒトデや人間に至るまで、あらゆる存在は見えない無数の他者(関係性)に貫かれており、その他者性は自分の内部にまで入り込んでいるというのです。したがって、他者とは完全に外在的な存在ではなく、常に自己の構成要素として内在しています。

この理解に立てば、倫理における他者への責任も「自分とは無関係な外部の他者」に対する義務ではありえません。むしろ、自分が既に巻き込まれている関係性(相互依存性)の網の目に対してどのように応答するかという問題になります。

他のポストヒューマン思想との比較

バラドの思想は、新しい物質主義やポストヒューマニズムの潮流の中に位置づけられ、ドナ・ハラウェイやジェーン・ベネットらの議論と響き合う部分が多くあります。しかし一方で、そのアプローチや強調点には独特の違いも見られます。

ドナ・ハラウェイは『サイボーグ宣言』に代表されるように、人間と機械・動物の境界が融解するサイボーグのメタファーによって近代的二元論を批判し、「自然と文化」の融合や多種共生を唱えました。彼女はフィクションや寓話を駆使しながら、「我々はサイボーグである」といった挑発的な表現で、人間中心主義を相対化し人間と非人間の相互構成を描き出しました。

一方、バラドもハラウェイの問題意識を共有しつつ、量子物理学の実在論から出発することで、より根源的な存在論レベルで人間と非人間の関係性を論じています。ハラウェイが比喩的に「サイボーグ」や「伴侶種」といった概念で種やテクノロジー間の相互依存を語るのに対し、バラドは「現象」「エージェンシャル・カット」といった哲学的概念で観察者と観察対象の不可分性を示します。

ジェーン・ベネットは新しい唯物論の代表的論者であり、著書『Vibrant Matter(生きている物質)』において、物質界に内在する活力や分散した行為主体性の観点から政治・倫理を論じました。ベネットの議論は、身近な物質が互いに作用しあって予期せぬ力を発揮する様子を描き、人間だけが特権的主体ではないことを示唆しています。

バラドとベネットはいずれも物質世界に遍在するエージェンシーを認め、人間中心的な能動/受動の図式を覆している点で共通しています。しかしアプローチを見ると、ベネットはスピノザやデルーズ的なヴィタリズムの流れを汲みつつ、詩的な文体で物質の生き生きとした姿を描出するのに対し、バラドは量子的相補性や不確定性といった理論的道具を用いて物質と意味の絡み合いを論証します。

バラドのアジェンシャル・リアリズムは、ハラウェイやベネットなど他のポストヒューマン思想家と共振しつつも、量子物理学由来の独自の概念装置によって差異化されています。その難解さゆえに理論の実践的応用の難しさを指摘する声もありますが、それでもなおバラドの思想がもたらした影響は大きく、フェミニスト哲学、科学技術論、環境人文学、新しいマテリアリズム、そしてポストヒューマニスト哲学といった分野に新たな視座を提供しています。

まとめ:量子論的存在論が開く新たな倫理の地平

カレン・バラドのアジェンシャル・リアリズムは、量子論的な洞察を背景に「物質と意味」「存在と知」「主体と客体」の関係を抜本的に見直し、ポストヒューマン的な倫理を再構築する試みでした。核心にあるのはエンタングルメント(絡まり合い)の思想であり、それは我々を含む世界のあらゆる構成要素が相互に条件づけ合う相互依存的なプロセスとして現実を捉え直すものです。

バラドは、この存在論的転回から導かれる倫理として、世界の生成に参与することへの責任を強調しました。我々は決して世界から切り離された観察者ではなく、世界の一部としてその在り方に関与している以上、自らの行為がどのような現象を生み出し、何を排除しているのかに自覚的でなければなりません。

また、「相互依存性」の再定義を通じて、バラドは自己と他者、文化と自然の境界を溶解させ、ポストヒューマン的な連帯の可能性を提示しました。それはハラウェイのサイボーグや「コンポスト」的世界観、ベネットのヴィブラント・マターの哲学とも響き合い、現代思想における物質的転回の一翼を担うものです。

バラドの量子論的存在論に学ぶことで、私たちは人間中心の思い上がりを戒め、より包括的で責任ある形で「宇宙の途上で世界と出会う」ことができるのではないでしょうか。彼女の理論は、気候変動や生態系破壊といった現代の環境危機に向き合う上でも、科学技術の在り方を問い直す上でも、重要な示唆を与えてくれます。今後、この理論をいかに実践的な倫理や政治の場面に適用していくかが、次なる課題となるでしょう。

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