時間は根源的な実在ではない?量子重力が突きつける問い
時間は宇宙の基本的な枠組みとして、あらゆる物理現象の舞台を提供していると私たちは考えてきました。しかし現代物理学の最前線では、この常識が大きく揺らいでいます。ループ量子重力理論と弦理論という二大アプローチは、それぞれ異なる方法で「時間は根源的な実在ではなく、より基本的な構造から創発する現象かもしれない」という可能性を示唆しているのです。
本記事では、両理論における時間の創発メカニズムを詳しく解説し、さらに哲学的な時間論や認知科学における時間知覚の研究成果も踏まえながら、時間の本質に多角的に迫ります。

ループ量子重力理論における「時間の消失」と創発
ハミルトニアン制約がもたらす時間の凍結問題
ループ量子重力理論(LQG)は一般相対性理論の量子化を目指す理論であり、背景となる時空を前提としない「バックグラウンド独立」な定式化が最大の特徴です。この理論では空間は離散的なスピンネットワークで記述され、連続的な時空という概念は微視的レベルでは意味を失います。
LQGが直面する最も深刻な問題の一つが「時間の凍結」です。正準量子重力理論では、重力場のハミルトニアンが制約条件として働き、物理的状態はハミルトニアン演算子の固有値ゼロの解として与えられます。これはウィーラー=デウィット方程式と呼ばれ、HΨ = 0という形で表現されます。
この方程式が意味するのは、真の物理状態は時間発展しないという衝撃的な帰結です。古典力学ではハミルトニアンは時間発展を生成する役割を担っていましたが、量子重力ではその対応物がゼロ固有値条件となるため、宇宙の波動関数に時間依存性が現れません。つまり理論の内部には外部から与えられた時間パラメータが存在せず、全宇宙を記述する波動関数は静的なのです。
物理学者ジュリアン・バーバーは、この問題を時間そのものが根本的には存在しないことを示す証拠だと解釈し、私たちが感じる変化や流れは基本法則から生じた幻想にすぎないと主張しています。
内的時間による時間の再構成
時間が理論に最初から存在しないならば、どのようにして時間的変化を記述するのでしょうか。ここで登場するのが「内的時間」という概念です。
このアプローチでは、理論の自由度(波動関数の引数)の中から一つを時計の役割として選び、他の自由度の変化をそれに対する相対的変化として記述します。例えばループ量子宇宙論では、質量のないスカラー場を時計として用いることで、ハミルトニアン制約を実質的な時間発展方程式とみなすことに成功しています。
具体的には、スカラー場φの値を時刻と見做し、宇宙の体積などの他の変数がφに対してどのように変化するかを記述するのです。この手法により「時間の凍結」は見かけ上解消され、波動関数Ψ(v, φ)はφによる進化を示すことができます。
重要なのは、この時間はあくまで宇宙内部から定義された相対的な時間であり、ニュートン的な絶対時間でも外部観測者の固有時でもないという点です。時間は変数間の関係として創発的に現れるのです。
スピンフォームと離散的時空構造
LQGにおける時間の創発をより明確に示すのが、スピンフォームと呼ばれる構造です。スピンフォームは「時間発展するスピンネットワークの履歴」を表すもので、通常の時空における世界線や歴史に対応します。
この枠組みでは、連続な時空は極小スケールでは意味を失い、空間も時間もない離散的な量子過程の集合体として描かれます。時間はもはや基本的パラメータではなく、スピンフォームにおける因果的なつながりや相関関係の中から有効的に現れるものと位置付けられます。
LQGの提唱者の一人カルロ・ロヴェッリは、根源的なレベルでは空間も時間も存在せず、熱力学的・情報論的な状態に伴って時間が現れるという「熱時間仮説」を提唱しています。この見方では、時間はエントロピーや情報と深く結びついた創発現象なのです。
弦理論とホログラフィー原理が示す時空の非根源性
AdS/CFT対応による空間次元の創発
弦理論は10次元時空上で一次元の弦が振動するという記述を基本としており、時間も最初から座標の一つとして理論に組み込まれています。しかし弦理論の驚くべき特徴である「双対性」によって、時空の構造が劇的に変換され、次元そのものが創発的に現れたり消えたりする現象が明らかになっています。
最も有名な例が、フアン・マルダセナによって発見されたAdS/CFT対応です。これは5次元の反ド・ジッター空間に住む重力理論と、4次元の境界に定義された共形場理論が数学的に等価であるという関係性です。
この対応において特筆すべきは、AdS側の半径方向の次元がCFT側には存在せず、境界理論のエネルギースケールに対応する形で新たに生じると解釈できる点です。つまり境界理論には無かった空間次元がホログラフィーによって創発するのです。
この発見以来、重力を含む時空が低次元の量子系から出現しうることが具体的に示され、時空は量子もつれなどのより基礎的な情報から創り出されるのではないかと考えられるようになりました。
時間の創発は起こるのか:dS/CFT対応への期待
しかしAdS/CFT対応において興味深いのは、時間座標は両理論で対応しているため、時間自体は創発していないように見えることです。この場合、創発するのは空間的次元のみとなります。
では弦理論において時間の創発は起こらないのでしょうか。この問いに関連して注目されているのが、dS/CFT対応の研究です。これは我々の宇宙に近いド・ジッター空間の場合にもホログラフィーを見出そうとする試みで、特に時間次元のホログラフィック記述を与えることを目指しています。
dS空間は時間的無限遠に境界を持つため、もし時間に対応する双対理論が構成できれば、時間次元が境界理論から創発する一例になる可能性があります。現在このプログラムは完全には実現されていませんが、理論的には時間が基本でないことを示すモデルケースになりえます。
ホログラフィーにおける時間の新たな理解
近年の研究では、ホログラフィーの枠組みにおいてモジュラー流や演算子代数の手法を用い、ブラックホール内部の時間を境界上の量子もつれから再構成する試みも進んでいます。
劉洪らの研究では、境界場のモジュラー演算を操作することでホログラフィーにおけるブラックホール内部の時間の進みを読み取れることが報告されました。これは、従来ホログラフィーで暗黙に同一視されていた境界の時間とバルク側の時間に微妙な差異や構造が潜んでいる可能性を示すものです。
今後の研究次第では、弦理論の枠内でも時間が情報構造から創発する現象がより明確に定式化される可能性があります。
哲学的時間論:実在か幻想か
現在主義と永遠主義の対立
物理学における時間の創発論は、哲学的な時間論への問いかけでもあります。古典的にはニュートンが絶対時間を想定したのに対し、ライプニッツは関係論的時間を主張しました。現代の一般相対論やLQGはライプニッツ的立場に近く、時間は事象間の関係にすぎず独立に流れる容器ではないと考えます。
一方、現代哲学では現在主義と永遠主義の対立も議論されてきました。現在主義は「今この瞬間だけが実在する」とする見解、永遠主義は「過去・現在・未来は等しく実在する」という見解です。
特殊相対論のブロック宇宙モデルは永遠主義を支持すると広く解釈されていますが、量子重力の文脈では現在主義を復権させる可能性も検討されています。ただしこの見解には批判も多く、一般にはブロック宇宙的な時間観に挑む試みはまだ少数派です。
バーバーの極端な時間否定論
ジュリアン・バーバーは著書『時間の終わり』で、宇宙の真の姿は変化のない配置空間上の点であり、時間や運動の感覚はその中の関係性から生じる幻想にすぎないと論じています。
この主張は極端に思えますが、LQGの枠組みを背景にした哲学的省察として注目されました。少なくとも量子重力が示唆する「時間抜きの世界」は、時間の実在性に対し懐疑を投げかけています。
認知科学が明かす主観的時間の創発
心理的時間の伸縮現象
物理的時間と私たちが主観的に感じる時間の間には大きなギャップがあります。楽しい時間はあっという間で、退屈な時間は長く感じられるという経験は誰もが持っているでしょう。
このような時間知覚の伸縮は、脳内の情報処理と深く関係しています。注意が向いている時や情報量が多い時は、脳は細かく情報を刻むため事後的には「長い時間が経った」と評価し、逆に単調な状況では情報のタイムスタンプ密度が低く「短く感じる」ことが知られています。
興味深いのは、経験中の時間評価と記憶における時間評価が逆転することです。退屈だった時間の記憶は実際より短く、充実した出来事の記憶は実際より長く感じられるという現象が報告されています。
脳が構築する「今」という感覚
従来、心理学者は脳に内部時計があり、それが刻むペースによって時間知覚が決まるというモデルを提案してきました。しかし最新の神経科学研究は、この単純なモデルに疑問を投げかけています。
実際には脳には専属の時計中枢があるわけではなく、複数の脳領域がネットワークとして協働し時間情報を構築していると考えられます。視覚や聴覚など異なる感覚の情報は脳に到達するタイミングが微妙にずれており、脳はそれらを同時だと感じるよう補正しています。
この同時性の再構成こそが意識の生起にとって本質的である可能性が指摘されています。脳はバラバラに届く感覚入力から統一的な「今」を作り上げており、そのプロセスが私たちの意識における現在の感覚を生み出すのです。
時間意識の延長と連続性
哲学者ウィリアム・ジェームズは「意識の流れ」という比喩で、我々の意識は離散的な瞬間ではなく連続した時間的厚みを持つと述べました。フッサールも内的時間意識の現象学分析において、主体が体験する現在は一瞬ではなくある程度の持続を常に含むと主張しました。
実験的にも、人が一つの「今」として感じられる時間範囲は数百ミリ秒から数秒程度のスケールがあることが示唆されています。脳内のニューロン活動は常に時間的に積分されており、短期記憶や作業記憶は過去数秒間の情報を保持します。
この時間の中に延びた意識こそが、私たちが時間の流れを感じる根拠だと考えられています。意識とは過去から未来への一連の変化を実時間で追随するプロセスなのです。
物理・哲学・認知科学の統合へ向けて
ロヴェッリの統合的時間論
物理学者カルロ・ロヴェッリは著書『時間の秩序』で、物理学と哲学の時間観を統合的に語り、熱力学・重力場と人間の時間意識を関連付ける議論を展開しました。
彼の主張によれば、エントロピー増大則が生み出す矢印が時間の方向性や記憶の成立に深く関与し、それが我々の心理的時間感覚の根底にあるといいます。このように物理と主観の時間を一つの物語に統合しようとする試みは、時間の実在性をめぐる議論に新たな視座を提供しています。
三つの視点から見る時間創発の構図
ループ量子重力理論は、ハミルトニアン制約による時間の消失から出発し、内的時間やスピンフォームの因果構造を通じて時間が関係的・創発的に現れることを示しました。
弦理論は、AdS/CFT対応による空間次元の創発を明確に示し、将来的には時間次元の創発も記述できる可能性を秘めています。
そして認知科学は、脳が複数の感覚入力から統一的な「今」を構築し、情報処理の状態によって主観的時間が伸縮することを明らかにしました。
これら三つの視点はそれぞれ異なるスケールとアプローチから「時間の創発」を扱っていますが、共通するのは時間が根源的な実在ではなく、より基本的な構造や過程から二次的に現れる現象である可能性を示唆している点です。
まとめ:時間の本質を問い直す学際的探求
ループ量子重力理論と弦理論は、それぞれ独自のアプローチで時間が基本的な実在ではない可能性を示唆しています。LQGではハミルトニアン制約により時間が消失し、内的時間として再構成される必要があります。弦理論ではホログラフィー原理により空間次元の創発が明示され、時間次元についても同様の可能性が探られています。
哲学的には、これらの知見は現在主義と永遠主義の議論に新たな視点をもたらし、時間の実在性そのものを問い直す契機となっています。一方、認知科学の成果は、私たちが日常的に感じる時間の流れが脳による構築物であることを明らかにしています。
今後、量子重力理論の発展により、なぜ熱力学的時間の矢と心理的時間の矢が一致するのか、なぜ我々は時間の流れを感じるのかといった問いに答えられる可能性があります。宇宙論的スケールから人間の意識に至るまで、時間を統一的に捉える見取り図が描ける日が来るなら、それは世界に対する私たちの見方を根底から変えることでしょう。
時間の創発に関する研究は、物理学・哲学・認知科学が交差する学際的なフロンティアであり、今後もさらなる発展が期待されます。
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