導入
「今、自分がどんな感情を抱いているのか」を内省することは、私たちの日常に欠かせない営みです。しかし、その感情がどのように生まれ、どのように意識に上るのかは、長らく心理学と神経科学の重要な問いでした。近年、予測処理理論や自由エネルギー原理といった統合的な理論枠組みが注目を集め、内受容感覚と情動内省の関係に新たな光を当てています。
本記事では、予測符号化の視点から内受容感覚がいかに情動体験を形成するか、EPICモデルやインターオセプティブ推論などの最新理論を交えながら解説します。脳が身体の内部状態を予測し、その誤差を最小化することで感情が構築されるという革新的な見方を、紐解いていきます。
予測処理理論と内受容感覚の基本概念
予測符号化と自由エネルギー原理
予測処理理論では、脳を「感覚入力を予測し予測誤差を最小化する推論機械」として捉えます。この枠組みにおいて、知覚・認知・行動から感情に至るまで、あらゆる精神機能が階層的生成モデルに基づくベイズ的予測過程で統一的に説明できるとされます。
脳は外界の出来事だけでなく、身体内部の変動も予測します。視覚や聴覚といった外受容感覚と同様に、心拍や呼吸などの内受容信号も予測の対象となり、その誤差を最小化することで効率的にエネルギーを配分し、適応的な生存を可能にしています。
内受容感覚とアロスタシス
内受容感覚とは、心拍、呼吸、血圧、ホルモン状態など身体内部の状態に関する感覚です。予測符号化の観点では、内受容感覚は単なる受動的な信号ではなく、恒常性を保つための能動的予測制御プロセスとして位置づけられます。
脳は外界の事象と同様に体内の変動を先取り予測し、その誤差を最小化することで効率的にエネルギー配分を調整します。このアロスタシス(恒常性の予測的維持)の視点からは、感情とは内受容予測の誤差に基づく調整シグナルとみなせます。つまり感情とは、脳が「現在の身体状態が望ましいか、より望ましい状態に近づけるか」を評価する推論結果が意識化されたものなのです。
例えば、驚いたとき心臓が高鳴り呼吸が荒くなるのは、脳が状況の重要性を予測し身体資源を動員した結果です。その予測誤差が意識に上ることで、主観的な情動感覚(驚きや不安など)として内省されます。このように心拍や呼吸といった内受容信号は、予測モデル内で恒常性維持の目標と結びつき、情動状態の形成と内省に直接寄与すると考えられます。
内受容予測に基づく情動理論
EPICモデルの概要
心理学者リサ・フェルドマン・バレットらは、情動を身体内部の予測過程として説明する身体化予測的内受容符号化モデル(EPICモデル)を提唱しました。このモデルでは、脳は内臓感覚の原因に関する生成モデルを構築し、トップダウン予測によって身体の内部状態をシミュレーションすることで情動経験を生み出すと考えます。
具体的には、大脳皮質の無顆粒皮質(島皮質や前帯状皮質など)が内受容情報の予測を生成し、心拍・呼吸など内部状態を予測・更新する中で「感じ」が作り出されます。EPICモデルは、ジェームズの末梢起源説やダマシオのソマティック・マーカー仮説と共通して身体の働きとその脳内表現を重視する一方で、予測誤差最小化と能動的推論に基づく具体的な処理メカニズムを提示できる点が利点とされています。
インターオセプティブ推論
神経科学者アニル・セスらによるインターオセプティブ推論の見解も類似しており、主観的な感情状態は脳内の生成モデルが作り出す内受容信号の予測産物であると提唱されています。脳が身体内部の感覚入力の原因を推測・説明する過程(ボトムアップの内臓信号とトップダウン予測の相互作用)こそが、喜びや悲しみといった情動を構築するという主張です。
このインターオセプティブ推論の視点からは、人間の意識や自己感も含めた経験の諸側面が、身体信号の下向きの予測と上向きの感覚との相互作用によって構築されると考えられます。要するに、私たちが「自分の感情を感じ取る(内省する)」という現象自体、脳内予測モデルが身体の状態を評価・ラベル付けする推測過程の表出だということになります。
情動の構成主義的理解
情動カテゴリーと予測誤差
上述の理論は、情動構成主義の立場とも深く関連します。バレットは情動の構成理論において、脳は過去の経験から形成された概念(カテゴリー)を用いて現在の感覚入力を予測・分類し、状況に適合する身体シミュレーションを実行することで、特定の情動エピソード(怒りや恐怖など)を構成すると述べています。
予測が成功すればそのシミュレーション=情動体験が強化され、予測が外れれば修正される試行錯誤により、各情動カテゴリーごとのパターンが学習されていきます。この視点によれば、私たちが日常で「怒り」「喜び」とラベル付けする感情は、脳内では連続的な内受容感覚の次元(快・不快や覚醒度)に投影されており、それを文化的・言語的に恣意的なカテゴリーに区切って認識しているにすぎません。
実際、虹の色を私たちが便宜的に「赤・橙・黄…」と区別するように、本来連続量である身体状態の感覚に概念の輪郭線を引くことで、離散的な情動として知覚しているのです。バレットは、特定の脳・身体の活動パターンが一対一で「特定の情動」を生み出すわけではなく、情動カテゴリーの境界は文脈と概念次第で可変であると指摘しています。
情動価の定式化
近年では、情動の価(valence)を予測誤差(自由エネルギー)の変化率として定式化する試みも登場しています。JoffilyとCoricelliの提案では、環境からの予想外の入力で予測誤差が増大する局面では負の情動価が生じ(驚きの増大=不快感)、逆に予測通りに進み誤差減少する局面では正の情動価が生じる(安定=安心感)とされます。
このモデルは、驚きの増減という情報量的指標から喜び・落胆・恐怖・安心といった基本情動の動態を説明できる可能性を示しており、情動を予測誤差制御の観点で捉える理論の発展形と言えるでしょう。
多感覚統合における内受容感覚の役割
予測モデルによる感覚統合
予測脳の理論では、視覚や聴覚などの外受容感覚、身体の位置や運動に関する固有受容感覚、そして内受容感覚がすべて同じ原理で統合的に扱われます。脳の各階層にある内部モデルはそれぞれのモダリティに対してトップダウン予測を発信し、対応するボトムアップ信号との乖離から予測誤差を算出します。
各感覚系の予測誤差は階層内で伝播・調整され、必要に応じて内部モデルが更新されると同時に、身体や感覚器官へのフィードバック(能動的推論)によって感覚入力自体も調整されます。この反復的な予測と調整のプロセスを通じて複数感覚が統合され、統一的な知覚・行動が生み出されるのです。
内受容感覚を軸とした意識経験
興味深いことに、一部の研究者は内受容感覚こそが様々な感覚を束ねる中心軸である可能性を指摘しています。意識経験は内受容感覚を軸に諸感覚を予測的符号化で束ねることで成立すると考えられます。内臓感覚による身体の「芯」のような情報が基盤にあることで、視覚・聴覚といった外界の情報も自己に引きつけられた形で統合され、一貫した「今ここでの私の経験」が構築されるという見方です。
実際、恐怖反応を例にとると、脳はまず視覚入力に予期せぬ対象(例:突然目の前に蛇が現れた)の予測誤差を検知すると、即座に運動系の内部モデルを更新して飛び退く・逃げるといったプログラムを能動化します。この能動的反応に伴い、骨格筋が緊張し心拍や血圧が急上昇すると、その変化が体性感覚野で筋緊張として、島皮質で心拍や血圧上昇としてそれぞれ知覚されます。
並行して扁桃体では事態の重要度評価が行われ、線条体では報酬価値の計算が走り、眼窩前頭皮質は「それがどんな文脈で生じた刺激か」を評価します。そしてACC(前部帯状皮質)や島皮質が中心となって脳と身体の広範なネットワークをハブ的に調整し、こうした各所の予測誤差の総和が減少するような最適な行動と内受容フィードバックを実行します。
結果として、「蛇を見て飛びのいた」「心臓がバクバクしている」という外界と身体の情報がリアルタイムに統合され、主観的には「強い恐怖を感じた」といった情動体験としてまとまるのです。
情動内省への応用と今後の展望
情動障害への理解
「自分の情動状態を内省する」とは、脳内の予測モデルが生み出した身体状態に関する評価を、意識的に捉えることだと解釈できます。予測処理理論によれば、私たちが感じ取る主観的な感情は、身体からの内受容信号と脳内予測との誤差情報が大脳で統合・解釈された結果に過ぎません。
ゆえに情動の内省は決して身体状態の「生データ」を読む行為ではなく、脳が文脈や過去の経験にも基づいて構築した一種の仮説を感じているということになります。この観点からは、内受容感覚の精度や予測のバランスが狂えば、情動体験の仕方にも歪みが生じると予想されます。
実際、不安傾向の違いによる呼吸予測の神経活動を調べた研究では、高不安群では前部島皮質が内受容予測と予測誤差の区別精度が低下し、呼吸知覚や学習に乱れが生じていたと報告されています。不安な脳では「息苦しさ」の予測が過剰に強まり、実際には問題ない呼吸入力にも関わらず苦しいと感じてしまう可能性が示唆されています。
このような知見は、予測処理モデルの枠組みが情動障害の理解にも有用であることを示しています。予測制御の不全から生じるインターセプションの歪みがパニック障害やうつ病などで見られる過剰な不安・無力感に関与しているという仮説も提起されており、内受容感覚の予測調整をターゲットにした新たな介入法(例えばバイオフィードバックや呼吸法の訓練)の可能性も議論されています。
学際的研究の可能性
この分野は神経科学・認知科学だけでなく哲学にもまたがる学際的テーマとして盛んに議論されています。日本においても「感情の科学と哲学」といったシンポジウムで予測処理理論に基づく情動解明が討論されたり、CRESTプロジェクトによりVR上で外部感覚と心拍・呼吸等の内受容信号を統合し自己の身体感覚・存在感への影響を検証する試みが行われています。
こうした取り組みは、脳の予測的メカニズムが生み出す情動経験を包括的に解明し、「身体を持つ心」の理解に迫ろうとするものです。予測処理と内受容感覚の理論は、情動の主観性や自己意識といった哲学的問題にも新たな光を当てつつあり、今後も神経科学・認知科学・哲学の交差点でさらなる発展が期待されています。
まとめ
本記事では、予測処理理論に基づく内受容感覚と情動内省の関係について、EPICモデルやインターオセプティブ推論などの最新理論を交えながら解説しました。脳が身体内部の状態を予測し、その誤差を最小化することで感情が構築されるという視点は、従来の情動理解に革新的な変化をもたらしています。
内受容感覚は単なる受動的な信号ではなく、恒常性を保つための能動的予測制御プロセスとして機能し、情動体験の形成と内省に直接寄与します。さらに、情動カテゴリーの構成や多感覚統合における中心軸としての役割、情動障害への応用可能性など、この理論枠組みは幅広い研究領域に示唆を与えています。
今後は、予測処理理論を基盤とした実証研究の蓄積や、臨床応用への展開が期待されます。内受容感覚と情動内省の関係を深く理解することで、感情の本質に迫るだけでなく、メンタルヘルス支援や人工知能における感情実装など、多様な分野への応用可能性が広がっていくでしょう。
コメント