はじめに:認知科学のパラダイムシフト
私たちの「心」や「認知」はどこに存在するのでしょうか。従来の認知科学では、認知は脳内の情報処理として理解されてきました。しかし近年、この見方に根本的な問いを投げかける研究アプローチが注目を集めています。それが「急進的具現化認知科学」です。
本記事では、急進的具現化認知の理論的枠組みと、その中核概念であるアフォーダンス理論の発展について詳しく解説します。認知を「身体と環境の相互作用」として捉え直すこのアプローチは、心理学、認知科学、ロボティクス、デザインなど多様な分野に新しい視座をもたらしています。

従来の認知科学の限界:表象主義からの脱却
計算主義的アプローチとは
従来の認知科学では、心的プロセスは「シンボル操作による計算処理」と見なされてきました。この立場は計算主義や表象主義と呼ばれ、脳をコンピュータのような情報処理装置として捉えます。
この見方では、認知は以下のように説明されます:
- 外界の情報を感覚器官から取り入れる
- 脳内に外界のモデル(内部表象)を構築する
- 内部表象に対してシンボル操作を行う
- その結果に基づいて行動を出力する
確かにこのモデルは、論理的思考や記憶といった特定の認知機能を説明する上で有効でした。しかし、日常的な知覚行為や身体運動、環境との即座の相互作用を説明する際には限界があることが指摘されてきたのです。
内部表象への疑問
表象主義的アプローチの問題点は、「内部表象」という仮定そのものにあります。私たちが環境と相互作用する際、本当に頭の中で詳細なモデルを構築してから行動しているのでしょうか。例えば、歩行中に障害物を避ける、ボールをキャッチする、会話中に相手の表情を読み取るといった行為は、複雑な内部計算を必要としているようには思えません。
こうした疑問から、認知を「頭の中」だけで完結するプロセスではなく、身体と環境を含めた全体的なシステムとして理解しようとする動きが生まれました。
急進的具現化認知科学の三つの主張
主張1:計算・表象モデルの否定
急進的具現化認知科学(Radical Embodied Cognitive Science)は、従来の構築的・記号的な表象に基づく計算モデルによる認知観を根本的に否定します。認知は「心的体操」と揶揄されるような複雑な内部計算ではなく、身体と環境の相互作用における現象として捉えられるべきだと主張します。
この立場は、「認知科学から心的体操を取り除いたもの」とも定義され、表象という概念を原理的に退けます。
主張2:動的システム理論の採用
認知を説明するためには、新たな分析ツールが必要です。急進的具現化認知科学では、動的システム理論(Dynamical Systems Theory)を含む数学的・物理学的な枠組みを用いて、認知プロセスを記述します。
動的システム理論では、システムの状態が時間とともにどのように変化するかを微分方程式などで表現します。この枠組みを用いることで、エージェント(生物や行為者)と環境の連続的な相互作用を、内部表象を仮定せずに説明できるのです。
主張3:非表象的アプローチ
最も重要な点として、急進的具現化認知科学で用いられる分析ツールは「心的表象を仮定しない」という特徴があります。つまり、認知過程を説明する際に、脳内の表象や記号操作に頼らないのです。
この非表象的・非計算的アプローチにより、知覚・認知・行為を切り離すことのできない「身体化した現象」として研究することが可能になります。
アフォーダンス理論の基礎:ギブソンの洞察
アフォーダンスとは何か
アフォーダンス(affordance)という概念は、心理学者ジェームズ・ギブソンが提唱しました。アフォーダンスとは、環境が動物に対して提供する「行為の可能性」を指します。
例えば:
- 椅子は「座る」ことをアフォードする
- ドアノブは「回す」「引く」ことをアフォードする
- 階段は「登る」「降りる」ことをアフォードする
重要なのは、アフォーダンスは環境の客観的性質でも、観察者の主観的解釈でもないという点です。ギブソンは「アフォーダンスは客観的性質でも主観的性質でもなく、その両方にまたがる概念であり、環境と行為者の双方にまたがっている」と述べています。
客観と主観を超えて
従来の哲学や心理学では、世界を「客観的な物理的性質」と「主観的な心的性質」に二分して考える傾向がありました。しかしアフォーダンスは、この二元論を超えた概念です。
椅子の「座れる性質」は、椅子の物理的構造(高さ、強度など)だけで決まるわけではありません。同時に、観察者の心の中だけにあるわけでもありません。むしろ、椅子の構造と人間の身体能力の関係性として存在するのです。
ケメロによるアフォーダンスの再定義
関係性としてのアフォーダンス
アンソニー・ケメロは、ギブソンの洞察をさらに発展させ、アフォーダンスを「環境の特徴とエージェント(動物)の能力との間の関係」として明確に再定義しました。
この定義により、アフォーダンスは次のように理解されます:
- アフォーダンスは環境側だけに存在する客観的性質ではない
- 観察者側だけに依存する主観的なものでもない
- エージェントの行為能力と環境の特性との相互関係そのものである
Affordances 2.0という発展
ケメロはこの再定義を「Affordances 2.0」と呼び、単なる概念の明確化にとどまらない理論的発展を示しました。特に重要なのは、動物の能力(効果機能)と環境のアフォーダンスが時間的に共進化し、相互に影響し合うという視点です。
例えば、人間がツールを使いこなすスキルを獲得すると、そのツールが提供するアフォーダンスも変化します。初心者にとっては単なる複雑な道具だったものが、熟練者にとっては多様な可能性を秘めた資源となるのです。
エナクティブ・アプローチ:センスメイキングという視点
認知は世界への意味付与である
エナクティブ・アプローチ(作用的認知)では、認知をエージェントが自らの身体と環境との相互作用を通じて世界に意味を付与していく「センスメイキング(sense-making)」のプロセスとして捉えます。
エゼキエル・ディ・パオロらは、センスメイキング能力を「自律システムが自らの存続に関わる事態に応じて、自身の活動と環境との関係を適応的に調整する能力」と定義しています。
生物にとっての「意味ある世界」
この能力により、エージェント(生物)は環境の中から自分の生存や行為にとって何が関連するかを弁別し、世界に意味付けを行うことができます。
例えば、空腹の動物にとって食べ物は際立って見え、満腹の動物には同じ対象が異なる意味を持ちます。環境は単なる客観的入力源ではなく、自らの目的や価値に照らして意味のある世界として現れるのです。
生態学的アプローチとの共通点
生態学的アプローチでは、環境に存在する情報(例えば光学的な構造)がエージェントにとって直接的にアフォーダンスを示すとされます。知覚と行為は分離不能であり、環境-エージェント系のダイナミックなカップリングによって認知行動が説明されます。
急進的具現化認知は、エナクティブと生態学的立場の共通点を積極的に取り入れています。両者に共通するのは、認知を頭内の表象処理と考えるのではなく「環境との相互構成的な関係性」に注目する点です。
アフォーダンスの場:豊かな可能性の地平
能力がアフォーダンスを規定する
ある環境が提供するアフォーダンスの内容や数は、そこにいるエージェントの身体的・技能的な能力によって決まります。人間は非常に多様な能力を持つため、人間が日常的に直面するアフォーダンスの「豊かな地平」が存在すると説明されます。
例えば、音楽家にとってのコンサートホールと、音楽経験のない人にとってのコンサートホールでは、同じ空間でありながら全く異なるアフォーダンスの場として経験されます。
Skilled Intentionality Framework
ロブ・ウィザーゲンやエリック・リートヴェルトらは、「Skilled Intentionality Framework(熟練意図性の枠組み)」を提唱しています。このフレームワークでは、熟達者は環境中の複数のアフォーダンスに同時並行的に応答しつつ、それらを取捨選択して最適な行為状態へと向かうと説明します。
熟練者の行為は単一の刺激-反応ではなく、環境が同時に提供する複数の「誘発(solicitation)」に対する巧みな応答として成り立っているのです。
実例:ピアニストの演奏
ピアニストは楽譜を見ながら指の運動、ペダル操作、感情表現など複数の要求に同時に対処します。これは、ピアニストにとって演奏環境に存在する多様なアフォーダンス(鍵盤の押下可能性、音響の響き、リズムの流れなど)の場を一度に捉えて行為していると言えます。
アフォーダンスの誘発性と関連性
環境が「働きかけてくる」特性
アフォーダンスには、それ自体がエージェントに「働きかけてくる」誘引的な側面があります。これは誘因性(valence)と呼ばれる特性です。
例えば:
- 空腹時のリンゴは「食べるように誘う」アフォーダンスを強く発する
- 空腹でない時には同じリンゴがそれほど誘因的でなく感じられる
関連アフォーダンスの場
リートヴェルトらは、エージェントのニーズや関心によって景色のように広がる全体的なアフォーダンスの場から特定のアフォーダンス群が選び取られる過程を「関連アフォーダンスの場(Field of relevant affordances)」として描写しています。
この概念により、環境内のどのアフォーダンスがその時々でエージェントにとって際立つのかを説明できます。すべてのアフォーダンスが常に同じように注意を引くわけではなく、状況や目的に応じて特定のものが前景化するのです。
エナクティブと生態学的アプローチの統合
相補的な二つの視点
エナクティブアプローチと生態学的アプローチは強調点がやや異なります:
- エナクティブアプローチ:主体の自律性や発達したセンサモータ習慣(身体スキル)の形成に焦点
- 生態学的アプローチ:環境中の情報とその直接知覚に焦点
統合的理解への道
近年では両者の統合可能性も指摘されています。エナクティブな枠組みが強調する主体側の習慣・歴史(センサモータスキーム)と、生態学的枠組みが強調する環境側の情報・アフォーダンスとを結びつける理論的提案が現れています。
この統合的視点では:
- 環境は多様なアフォーダンス情報を提供してエージェントの行為を方向付ける
- 同時にエージェント側の身体的習慣や目的がどのアフォーダンスに応答するかを決定する
認知行為は常に環境と主体の協調的な産物であり、動的システム理論が示すように両者の相互作用から創発するパターンとして説明できるのです。
社会文化的文脈とアフォーダンス
文化が規定する行為可能性
アフォーダンスの知覚と応答は、社会文化的文脈にも大きく影響されます。どのアフォーダンスに気づき応答するかは、その人の文化的背景や社会的役割によって左右されることがあります。
例えば、茶道における茶室のアフォーダンスは、茶道の訓練を受けた人とそうでない人では全く異なって立ち現れます。同じ物理的空間でも、文化的スキルによってアフォーダンスの場が変化するのです。
選択性の問題
環境に存在する多数のアフォーダンスを「場の概念」で捉えることで、実際の行為における選択性も説明可能になります。なぜ特定のアフォーダンスが選ばれるのか、なぜある人は特定の行為可能性に気づき、別の人は気づかないのか。こうした問いに、文化・文脈・個人の歴史を考慮した説明を与えることができます。
まとめ:認知科学の新しい地平
急進的具現化認知科学は、認知を「エージェントと環境の相互構成的なダイナミック過程」として捉え直し、従来の計算主義的・表象主義的アプローチに根本的な問いを投げかけています。
この枠組みの中で、ギブソンのアフォーダンス理論は大きく発展しました。ケメロによる関係性としての再定義、アフォーダンスの場という概念の導入、誘発性や関連性の考慮により、アフォーダンス理論は単なる環境の性質ではなく環境とエージェントの関係そのものとして位置付けられました。
従来の認知科学が軽視しがちだった環境の役割や身体のスキルを正面から捉えることで、認知をより包括的に理解することが可能になります。この視点は、心理学、デザイン、ロボティクス、AI、教育など多様な分野に新しい示唆を与え続けています。
急進的具現化認知とアフォーダンス理論の結びつきは、「心と身体・環境の融合した理解」を深化させる方向で今後も発展していくことが期待されます。表象や計算に頼らない認知の説明が、人間理解の新しい扉を開くのです。
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