初期宇宙における量子ゆらぎの「古典化」はなぜ重要か
今日わたしたちが観測する銀河の分布、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度異方性、そして大規模構造は、いずれもインフレーション期に生成された原始ゆらぎを祖先に持つ。このゆらぎの起源は量子真空の揺らぎであり、ミクロの量子論的な統計が宇宙規模の古典的な密度分布へと「変換」されている——これが宇宙論的量子デコヒーレンスと古典化の核心的な問いである。
この問いは単なる形而上学的興味ではない。どのようなメカニズムで量子から古典への移行が起きるかによって、CMBの非ガウス性や原始重力波スペクトルへの可観測な補正が生まれる可能性がある。現在稼働中・計画中の観測装置(LiteBIRD、CMB-S4、DESI、SKAO)が将来提供するデータを正しく解釈するためにも、この理論的基盤の整理は急務といえる。

量子デコヒーレンスの基礎:開放量子系と密度行列
系・環境・ポインタ基底
宇宙論的デコヒーレンスを議論するには、まず「系(観測対象)」と「環境(未観測自由度)」を分ける必要がある。全ヒルベルト空間を H=HS⊗HE と分解し、全密度行列 ρSE から環境をトレースアウトして縮約密度行列 ρS=TrEρSE を得る操作が出発点だ。
この操作によって系は一般に混合状態となり、密度行列の非対角成分——量子干渉の担い手——が特定の基底(ポインタ基底)において抑圧される。どの基底が選ばれるかは系と環境の相互作用の形に依存しており、これをアインゼレクション(einselection)と呼ぶ。
マスター方程式:Born–Markov近似とLindblad形式
環境の相関時間が系の典型的な時間スケールより十分短く、かつ弱結合が成立する場合(マルコフ近似)、縮約密度行列の時間発展はLindblad方程式と呼ばれる半群形式で記述できる。代表的な形は次の通りである。dηdρ^S=−i[H^S,ρ^S]−2γ∫d3xd3yCR(x,y)[A^(x),[A^(y),ρ^S]]
ここで A^ は系の観測量(インフレーション摂動では Mukhanov 変数 v^ など)、CR は環境の空間相関関数、γ は結合強度の時間依存係数を表す。右辺第二項の 二重交換子が非ユニタリなデコヒーレンス項であり、ポインタ基底の固有状態間の非対角成分を指数的に減衰させる役割を果たす。
現象論的な枠組みでは γ=γ∗(a/a∗)p のようにスケール因子依存性をパラメータ化し、指数 p と基準強度 γ∗ を観測データで制約することが行われている。環境の空間相関長 ℓE(物理長)も独立パラメータとして導入され、マルコフ近似が成立する領域(例:ℓE がハッブル半径より十分小さい場合)を優先的に探索域とする。
インフレーション期の量子ゆらぎとMukhanov変数
モード方程式とBunch–Davies真空
単一場スロー・ロールインフレーションでは、スカラー摂動は共動曲率摂動 R で記述され、Mukhanov変数 v=zR(z2∝a2ϵ)を導入すると二次作用が正準形になる。各フーリエモード vk は共形時間 τ に関して vk′′+(k2−zz′′)vk=0
を満たす。この方程式が、Bunch–Davies真空(深いサブハッブルスケールでミンコフスキー真空に一致)を初期条件として、原始スカラーパワースペクトル Δs2 を決定する標準的な出発点となる。テンソル摂動(原始重力波)も同様の形式に従い、スカラーとテンソルのスペクトル比(テンソル・スカラー比 r)はスロー・ロールパラメータ ϵ と結びつく。
古典化の二段階プロセス:スクイージングとデコヒーレンスの役割分担
第一段階:スクイージングによる実効的古典性
インフレーションによって超地平線化したモードは強くスクイーズされ、位相空間(Wigner関数)上で古典軌道に沿って細長く尖った分布を示す。この状態では正準共役変数の非可換性が実効的に無視できるようになり、量子期待値が古典確率平均と一致するという意味での実効的古典性が成立する。
この描像はパワースペクトル等の観測量を古典確率論的に計算することを正当化する。しかし重要な注意点がある——この段階では状態は依然として純粋であり、量子干渉項を原理的に消去したわけではない。あくまで干渉が「観測不可能になる」という意味での古典性に留まる。
第二段階:環境との相互作用によるデコヒーレンス
現実の宇宙では、原始ゆらぎは他の場・短波長モード・再加熱後の物質自由度と不可避的に相互作用する。この開放系としてのダイナミクスが、縮約密度行列のポインタ基底における非対角成分を実際に抑圧し、古典確率混合としての描像を安定化させる。これが古典化の第二段階であり、スクイージングだけでは尽くせない側面を補完する。
「スクイージングだけでは量子古典転移の全側面を説明できない」という点は、エンタングルメントやスクイーズド状態の観点からの研究でも明示的に指摘されている。
主要な理論モデルの比較
最小重力デコヒーレンス(Open EFT アプローチ)
単一時計(single-clock)モデルにおいて、重力が必然的に与える自己相互作用のみを考慮し、観測者がアクセスしない短波長スカラー・テンソルモードを環境としてトレースアウトする枠組みが「最小デコヒーレンス」評価である。
このとき、超地平線スカラーモードのデコヒーレンス強度は遅い時間極限(−kη≪1)で次のように評価される。 Ξk(η)≃64π5ϵ1(MpH)2(kaH)3
(aH/k)3∝e3N(N:地平線退出後のe-fold数)の因子により 指数的に増大することが特徴的だ。初期係数 ϵ1(H/Mp)2 が小さくても、十分なe-foldが経過すれば Ξk∼O(1) に達しうる。
定量的な帰結として、CMBスケールではインフレーションのエネルギースケールが ρinf1/4≳5×109 GeV を上回るときにデコヒーレンスが終端前に有効となる可能性がある。GUTスケール程度のエネルギーでは「最後の約13 e-fold以内に地平線を出るモード」で不完全になりうるとされる。
重要な含意として、この枠組みでは「デコヒーレンスは強く進行し得るが、パワースペクトルの変化はループ抑制で非常に小さい」ことが強調されている。すなわち古典化と観測量改変は原理的に分離可能であり、標準的な二点統計だけでは古典化の程度を直接識別しにくい。
現象論的Lindbladモデルと観測制約
環境の詳細を問わず、Lindblad方程式を現象論的な枠組みとして採用する approach では、デコヒーレンス指標 δk(例えば δk>10 を古典化の閾値と定義)が終端までに閾値を超えるための条件(下限)と、パワースペクトルの準スケール不変性を壊さない条件(上限)とを同時に課すことで、環境モデルのパラメータ空間が選別される。
多フィールドモデルと等曲率モードのトレースアウト
インフレーション軌道が曲がる多フィールド模型では、断熱モードと等曲率(isocurvature)モードが結合する。等曲率モードを未観測の環境としてトレースアウトすることで、断熱摂動の縮約密度行列のデコヒーレンスが起きる。この枠組みでは、地平線退出後にエンタングルメントエントロピーが成長するプロセスを数値的に追跡できる。
高次相関(トリスペクトル)へのLindblad効果
Lindblad形式の開放系は、パワースペクトル(二点関数)に加えて高次相関にも影響を与える。特に、あるクラスの相互作用ではビスペクトル(三点関数)がゼロのままでも四点関数(トリスペクトル)が非ゼロとなり得ることが指摘されている。これは CMB の非ガウス性制約——Planck 最終解析による gNL 等の制約——と直接対比できる観測的シグネチャである。
観測的証拠と将来実験との対応
CMBパワースペクトルと非ガウス性
CMB の二点統計(温度・偏光パワースペクトル)は、Planck 2018 最終成果が提供する標準 ΛCDM の高精度検証枠を形成している。しかし前述の通り、最小重力デコヒーレンスのような枠組みでは、パワースペクトルへの補正はループ抑制で小さく、二点統計だけでは開放系の効果を識別しにくい。
一方で Planck 最終解析は、局所型・等角型・直交型の fNL がゼロ近傍と整合的であること、さらに gNL 等のトリスペクトル制約も提供しており、Lindblad起源の高次相関に対する現時点の最良制約を与えている。
Bモード(原始重力波)制約
BICEP/Keck の BK18 解析は WMAP・Planck と組み合わせて r0.05<0.036(95% C.L.)を達成しており、原始重力波の現状最良上限として機能している。テンソルモードのデコヒーレンスがスカラーより速く進む可能性(重力自己相互作用の抑制が相対的に弱い場合)や、Lindblad デコヒーレンスがテンソルパワーをスケール依存に増大させるモデルは、将来の Bモード観測によって制約が強化される。
LiteBIRD は r∼10−3 級の感度を目指し、Simons Observatory や CMB-S4 も地上からの高感度観測を計画している。これらによって H/Mp の精密評価が進めば、重力起源デコヒーレンスのパラメトリックな整合性が検証可能となる可能性がある。
LSS・21cm・宇宙重力波の相補性
Planck非ガウス性制約に加えて、将来の大規模構造サーベイ(DESI、Euclid)が測定体積を拡大し、原始非ガウス性(PNG)パラメータへの統計誤差を縮小する見込みがある。HERA や SKAO が担う21cm線観測は、再電離期のパワースペクトルをトモグラフィ的に測定し、小スケールの原始統計に相補的な制約を与え得る。LISA のような宇宙重力波干渉計は、テンソルスペクトルのスケール依存修正に感度を持つ可能性があるが、インフレーション由来テンソルの直接検出可否は強いモデル依存性があり、現時点では補助的な位置づけが妥当である。
数値評価の設計と計算戦略
ガウス近似での相関関数ODE系
系が二次ハミルトニアン+Lindblad二重交換子で閉じるガウス近似では、密度行列全体よりも二点相関(⟨v^v^⟩、⟨v^p^⟩、⟨p^p^⟩)の運動方程式をモードごとの常微分方程式として数値的に解く方が効率的である。この系はデスクトップ〜小規模クラスタースケールで実装可能であり、デコヒーレンス指標 Ξk や純度の時間発展を視覚化できる。
想定される可視化プロット
実装上有用な出力として、以下が挙げられる。(1)e-fold N に対する Ξk(N) の指数的増大(CMBピボットスケール k∗ と複数の小スケール点を比較)、(2)固定終端時刻でのデコヒーレンス強度 Ξk vs 波数 k のプロット、(3)パワースペクトル補正 ΔΔs2(k)/Δs2(k) の (γ,p,ℓE) 依存性と「デコヒーレンス完了かつ準スケール不変」の許容領域の色分け、(4)CMB角度パワースペクトルへのボルツマン伝播後の補正 ΔCℓTT/CℓTT および ΔCℓBB、(5)トリスペクトル由来の有効パラメータ gNL のスケール依存とPlanck制約との比較。
多フィールドと格子法への拡張
等曲率環境を含む多フィールドの場合は、断熱・等曲率の結合を含む線形方程式を解き、エンタングルメントエントロピーの時間発展を直接評価する。再加熱・非線形過程まで含む格子シミュレーションは計算コストが大きく、まずインフレーション中のモード別デコヒーレンスに焦点を絞るのが現実的なアプローチである。
研究上の未解決問題と限界
「古典化」の定義の分裂という問題が根本にある。スクイージングによる実効的古典性(確率分布としての取り扱いが可能)と、密度行列の非対角成分抑圧(デコヒーレンス)は論理的に別概念であり、さらにどちらも量子力学の測定問題(単一結果の選択)を解くものではない。この三者の関係は宇宙論の文脈でも明示的な区別が必要である。
系/環境分割のモデル依存性も根本的な課題だ。短波長モードを環境とするか、別場を環境とするか、等曲率モードを環境とするかによって、デコヒーレンスの速度・ポインタ基底・観測量への影響が変わる。相互作用ハミルトニアンの微視的正当化が観測可能性と不可分の理論課題となっている。
インフレーション後の対角化の保持についても、最小重力デコヒーレンスの評価では (aH/k)3 が再突入時に縮小することが指摘されており、「対角化がその後も保たれるか」の厳密な証明は未了の状態にある。
境界項支配の重力起源デコヒーレンスという提案も存在しており、通常の相関関数(⟨ζn⟩)を変えずに対角化を速め得るとされる。この機構は標準的な観測量では識別できないが、CMBの量子性検出提案(Bell型不等式、量子discordなど)に対しては原理的に影響し得る。
まとめ:量子から古典へ——観測が迫る理論の洗練
宇宙論的量子デコヒーレンスは、インフレーション起源ゆらぎの古典化を「スクイージング(実効的古典性)」と「環境との相互作用(密度行列の非対角成分抑圧)」の二段階で理解するフレームワークを提供する。最小重力デコヒーレンスの評価はパワースペクトルをほとんど変えずに古典化が進み得ることを示す一方、現象論的Lindbladモデルはパワースペクトル補正や高次相関(特にトリスペクトル)を通じた観測制約の可能性を示している。
現時点の観測ではCMBの精密二点統計(Planck)とBモード上限(BICEP/Keck BK18)が基準点を提供しており、将来のLiteBIRD・CMB-S4・DESI・SKAOが補完的な制約を強化する見込みがある。
次の最小実行ステップとして最も検証効率が高いのは、(1)単一場+現象論Lindbladの両枠でCMBスケールにおける「デコヒーレンス完了条件」と「二点・四点制約」との整合領域を数値的に再評価し、(2)その領域でトリスペクトル特性や将来実験でのフィッシャー解析を通じて識別可能性を定量評価する流れである。
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