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プロスペクト理論と量子確率モデルの統合:意思決定研究の新フロンティア

なぜ今、プロスペクト理論と量子確率の統合が求められるのか

行動経済学や認知科学における意思決定モデルは、長年にわたって期待効用理論の限界を補う形で発展してきた。その中でもプロスペクト理論(Prospect Theory)、とりわけ累積プロスペクト理論(Cumulative Prospect Theory: CPT)は、損失回避・確率加重・参照点依存といった人間の非合理的な意思決定パターンを定量的に捉える枠組みとして確立している。一方で近年、量子確率(quantum probability)や量子認知(quantum cognition)という視点から、CPTでは説明しにくい文脈依存性・順序効果・干渉現象を記述しようとするアプローチが注目を集めている。

本記事では、これら二つの理論を「推定可能な確率モデル」として統合するハイブリッドモデルの設計思想・数理構造・経験的フィッティング手法を整理する。CPTの「リスク選好・損失回避・確率加重」と量子モデルの「文脈依存・干渉・非可換性」を一つの枠組みに収めることで、意思決定研究の説明力と予測精度がどのように高まりうるかを示す。


プロスペクト理論(CPT)の数理的核心

価値関数と損失回避の定量化

累積プロスペクト理論の第一の柱は、参照点(通常ゼロ)を境に形状が変わる価値関数である。利得領域では凹型(感応度の逓減)、損失領域では凸型(感応度の逓減)となり、さらに損失側の勾配が利得側より急になることで損失回避を表す。代表的な形式は次のべき関数である。

  • 利得(x ≥ 0):v(x) = x^α
  • 損失(x < 0):v(x) = −λ(−x)^β

ここでα, β ∈ (0, 1] は感応度逓減のパラメータ、λ > 1 は損失回避係数である。Tversky & Kahneman(1992)の実験では α ≈ 0.88、λ ≈ 2.25 という典型値が報告されており、人間が損失を利得の約2倍以上に「感じる」ことを示している。

確率重み付け関数:逆S字型の知覚歪み

CPTの第二の柱は確率の非線形変換である。人は低確率を過大評価し、中高確率を過小評価する傾向があり、これを確率重み付け関数 w(p) で表現する。関数形はいくつか提案されているが、共通して「逆S字型」の曲線を描く。

確率重みは累積確率に作用する「順位依存」の形で定義され、利得側と損失側でそれぞれ別のパラメータ(γ, δ)が推定される。典型値として利得側 γ ≈ 0.61、損失側 δ ≈ 0.69 が報告されている。

くじ(ガンブル)の全体的な主観価値 V(f) は、各アウトカム x_i の価値 v(x_i) に決定重み π_i を掛けて合計することで得られる。


量子確率モデルの最小構成と干渉項

なぜ量子確率が意思決定に使えるのか

量子認知・量子確率モデルは「脳が量子的に動作している」という主張をするものではない。複素ヒルベルト空間上の確率計算という「形式」を借用することで、古典的なコルモゴロフ確率では表せない現象——文脈依存、順序効果、干渉——を自然に記述できる点が重要である。

基本要素は以下の三つである。

第一に「状態」として、|ψ⟩(状態ベクトル)または密度行列 ρ が確率的な心的表象を担う。第二に「ユニタリ変換 U」が文脈・フレーミング・注意配分による表象変換を表す。第三に「測定(射影 P)」が質問や選択要求に対する確率的応答生成を表し、確率は Born 則:Pr(A) = ⟨ψ|P_A|ψ⟩ により与えられる。

干渉項の導出と理論的制約

干渉は確率振幅を足してから二乗する(Born 則)ことで生じる。二つの認知的「経路」の振幅を a, b とすると、

Pr = |a + b|² = |a|² + |b|² + 2Re(a*b)

最後の項が干渉項 I であり、a = √p₁·e^(iθ₁)、b = √p₂·e^(iθ₂) と置けば、

I = 2√(p₁p₂) cos(θ₁ − θ₂)

と書ける。位相差が小さければ構成的干渉(確率が増加)、位相差が π に近ければ破壊的干渉(確率が減少)となる。

理論的上界として |I| ≤ 2√(p₁p₂) が成立し、干渉は任意に大きくできないことが保証される。量子意思決定理論(QDT)はさらに、干渉因子 q に対して範囲制約・交互条件(選択肢全体で総和ゼロ)・「四分の一則」(平均絶対値 ≈ 1/4)という構造的制約を導いており、干渉を「完全な自由パラメータ」でなく「理論に従った制約付き成分」として扱うことが可能になる。


ハイブリッドモデルの構造設計

CPT価値から評価状態・量子写像・Born則へ

提案するハイブリッドモデルは、次の四段階の構造を持つ。

第一段階:CPT価値の計算。 各試行 t でくじ A・B の主観価値 V_A(t)、V_B(t) を CPT の価値関数と確率重みで計算する。

第二段階:ベース選択確率の生成。 価値差 ΔV(t) = V_A(t) − V_B(t) からシグモイド関数を通じてベース確率 P₀(t) = σ(η·ΔV(t)) を得る(η > 0 は感度パラメータ)。

第三段階:評価状態の構成と量子変換。 2次元ヒルベルト空間で評価状態 |ψ₀(t)⟩ = √P₀(t)|A⟩ + √(1−P₀(t))|B⟩ を作り、ユニタリ U(θ, φ) で変換する。

第四段階:Born則による選択確率の導出。 P(A|t) = |⟨A|ψ(t)⟩|² を展開すると、

P(A|t) = [cos²θ · P₀(t) + sin²θ · (1 − P₀(t))] + [sin(2θ)√(P₀(t)(1−P₀(t))) · cos φ]

前者が「回転混合項 f(t)」、後者が「干渉項 q(t)」に相当し、QDT の p = f + q 分解とも整合する。

CPTパラメータと量子パラメータの対応付け候補

自由度の膨張を抑えながら理論的整合性を保つため、複数の対応付け方式を設計できる。

候補A(振幅への埋め込み): くじの状態ベクトルの係数に確率重み w の平方根 √w を置くことで、確率 = 振幅二乗という量子構造と CPT の確率重みを自然に整合させる。

候補B(価値位相仮説): 位相 φ(t) = φ₀ + κ·ΔV(t) として価値差から位相を計算する。これにより推定するのは κ と φ₀ のみとなり、干渉項が「理論的に計算される」形になる。

候補C(損失回避と破壊的干渉の結合): φ = π·(λ−1)/(λ+1) という写像で、損失回避係数 λ が大きいほど位相が π に近づき干渉がより破壊的になるという仮説を表現する。

候補D(確率加重曲率と回転角の結合): θ = (π/4)·(1 − γ̄) として、確率認知の非線形性(γ が小さいほど回転が大きい)と量子側の基底回転を結びつける。

候補E(QDT制約の正則化注入): 二択では q_B = −q_A(交互条件)、被験者単位でE|q| ≈ 1/4(四分の一則)を弱い事前分布または罰則項として加え、干渉の自由度を理論的に拘束する。


経験的推定:最尤法・階層ベイズ・モデル比較

尤度関数と推定手順

二択データに対しては、各試行の選択 y_t ∈ {0, 1} を用いたベルヌーイ尤度が基本となる。

log L(Θ) = Σ_t [y_t log P(A|t) + (1 − y_t) log(1 − P(A|t))]

最尤推定(MLE)では、CPTパラメータ(α, β, λ, γ, δ, η)と量子写像パラメータ(θ, φ または κ, φ₀ など)を同時に、あるいは段階的に最大化する。段階推定(まずCPTのみ→次に量子部を追加)は局所解回避と同定性確認に有効である。

階層ベイズによる個人差のモデル化

CPT推定では被験者間の個人差が大きく、単純な点推定では不安定になりやすい。階層ベイズでは被験者を「群分布からのサンプル」として扱い、部分プーリングにより安定した推定が得られる。事前分布の設計例として、α, β, γ, δ には Beta 分布、λ には対数正規分布、φ には周期性を考慮した von Mises 分布などが適切である。

AIC・BIC・WAICによるモデル選択

CPT基準モデル、量子モデル単独、提案ハイブリッドモデルの三者を比較するには、情報量基準が標準的な手段である。AIC は情報理論に基づく汎化性能の指標、BIC は次元選択の漸近基準、WAIC は階層モデルや特異モデルでも適用可能なベイズ的交差検証と漸近同値な基準である。同定性が懸念されるハイブリッドモデルでは、自由パラメータ数を明示的に管理し BIC や WAIC で厳しく評価することが重要になる。


推奨データセットと検証計画

大規模公開データセット

本モデルの推定・検証には、リスク選好・損失回避・確率加重を含む大規模選択データが必要である。代表的な候補として次のものがある。

Zenodo 公開の CPC2015CPC18 Calibration Set は、それぞれ数十万件規模の選択データを含み、リスク・曖昧性・経験(フィードバード)条件が系統的に組み込まれている。GitHub 公開の choices13k は13,006問題の選択率データを提供し、くじパラメータとフィードバック有無を含む。これらはいずれも列仕様が明記されており、再現性の高い推定が可能である。

パラメータ回復実験と感度解析

推定に先立ち、合成データを用いた「パラメータ回復実験」が必須である。真のパラメータ Θ* から選択を生成し、推定値 Θ̂ との相関・RMSE・事後分布の分離を確認することで、量子側パラメータ(θ, φ)が CPT 側(η, λ など)と混同されないかを重点チェックする。

感度解析では、価値差 |ΔV| が小さい「葛藤状況」で干渉項が強まり、価値差が大きい「明確な優劣」で干渉が弱まるというスケーリング仮説(古典極限への収束)を系統的に検証することが、モデルの理論的妥当性評価において重要な役割を果たす。


まとめ:ハイブリッドモデルが切り開く意思決定研究の地平

本記事では、CPTの価値関数・確率加重と量子確率の状態・ユニタリ変換・干渉を統合したハイブリッドモデルの数理構造を整理した。核心となるのは、CPT価値からベース確率を生成し、量子ユニタリ変換を通じて選択確率を導出するという四段階の設計であり、最終的な選択確率が「回転混合項+干渉項」に分解される点である。

干渉項はQDT由来の上界・交互条件・四分の一則という理論的制約を持ち、「何でもありの自由パラメータ」ではなく制約付き成分として推定・検証が可能である。CPTパラメータと量子写像パラメータの対応付けには複数の候補があり、自由度抑制と同定性の設計が実装上の最重要課題となる。

推定手法としては MLE と階層ベイズ、モデル比較には AIC/BIC/WAIC を組み合わせることで、理論的妥当性と経験的説明力を同時に評価できる。大規模公開データ(CPC系・choices13k)による実証と合成データによるパラメータ回復実験を組み合わせることで、ハイブリッドモデルの有用性を段階的に検証することが推奨される。

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