はじめに:LLMを哲学的にどう捉えるか
ChatGPTをはじめとする大規模言語モデル(LLM)は、高度な言語生成能力によって社会に大きな影響を与えています。しかし、これらのAIを哲学的にどう位置づけるべきかという問いは、依然として未解決のままです。
従来の議論では「LLMは本当に理解しているのか」「意識を持つのか」といった人間中心的な基準での評価が主流でした。しかし、そうした問いだけではLLMの本質と影響力を十分に説明できません。
本記事では、**アクターネットワーク理論(ANT)とオブジェクト指向存在論(OOO)**という二つの現代哲学の枠組みを用いて、LLMの存在論的な位置づけを比較検討します。これらの視点は、人間中心主義を超えた技術理解を可能にし、AIと社会の共進化を捉える新たな視座を提供します。

アクターネットワーク理論(ANT)とは何か
人間と非人間を等しく扱う哲学
アクターネットワーク理論は、科学技術社会論の文脈でBruno Latourらによって提唱された枠組みです。その核心は、人間と非人間(物質、技術、組織など)を区別せず、等しく「行為者(アクタント)」として捉える点にあります。
社会は人間だけの産物ではなく、人間とモノが織りなす複雑なネットワークとして再定義されます。この観点では、テクノロジーも主体性を持ちうる存在であり、その振る舞いを理解するには人間との相互作用ネットワークの中に位置づける必要があります。
LLMをネットワークの結節点として捉える
ChatGPTのようなLLMは、ANTの視点では単なる道具ではなく、ネットワークを構成する重要なハブとして機能します。開発者、訓練データ、アルゴリズム、ユーザーといった人間・非人間アクタントが相互接続されたネットワークの中で、LLMは情報生成・伝達という行為を担います。
重要なのは、LLMが単に受動的な道具ではなく、能動的な翻訳者である点です。Latourの言う「翻訳」とは、アクタントがネットワーク内で入力を受けて出力を生成する際に、独自の変換や効果を加えることを指します。LLMは与えられたデータやプロンプトをそのまま返すのではなく、内部で計算・確率的推論を行った結果として新たなテキストを生成し、人間の行為や意思決定に影響を与えます。
ANTから見たLLMの自律性
ネットワーク内での独立した作用
ANTにおける「自律性」は、人間のような内的意図や意識を意味するものではありません。むしろ、ネットワーク内で他のアクタントに対して及ぼす作用の独立性として捉えられます。
LLMはプログラムされた人工物ですが、その出力は必ずしも設計者の完全な意図通りには制御されません。例えば、ChatGPTは巨大なデータセットから学習した結果、開発者が予期しなかったような応答を生成することがあります。一度学習したモデル内部の重みパラメータに基づく振る舞いには、開発者ですら逐一予測・説明しきれない側面が存在します。
プログラムとアンチプログラムの動態
Latourの提示した「プログラム」と「アンチプログラム」の関係は、LLMの自律性を理解する上で重要です。ある技術システムには目標(プログラム)が設計されますが、実際には予期せぬ振る舞いや反作用(アンチプログラム)が生じます。
LLMの場合、有用な応答を生成するというプログラムに対し、時に偏見の再生産やハルシネーションによる誤情報生成といったアンチプログラム的な振る舞いを見せます。そのため、人間社会はこれを抑制・修正するためのルール作り(AI規制法の制定など)やユーザー教育といった新たなアクタントを導入し、ネットワーク全体の安定化を図ります。
この動態は、LLMが完全に人間に従属的なツールではなく、社会技術システムの中で一定の自律性を持つアクタントであることを示しています。
ANTから見たLLMの意味生成
ネットワーク全体の産物としての意味
従来の議論では、LLMが出力する文章の「意味」は本当に理解されて生成されたものではなく、統計的パターン模倣に過ぎないという批判がありました。確かにLLMは内部に人間のような意識を持たず、「わかって」答えているわけではありません。
しかしANTは、このような内面の有無に囚われる議論を相対化します。ANTにとって意味とは、個々のアクタントの内部だけで完結するものではなく、ネットワーク内の相互作用を通じて生成される効果として捉えられるからです。
相互作用における意味の創発
LLMが生み出すテキストも、それ単体で完結した「意味」ではなく、人間ユーザーが解釈し反応することで初めて社会的な意味を獲得します。
研究者のXyh Tamuraは、現在のAIやロボットに関する議論が「知性や感情があるか」といった内面中心の問いに偏りがちだと指摘し、むしろそれらが既に人間の社会的相互作用にどう関与しているかに目を向けるべきだと述べています。チャットボットは共感能力がなくとも人の悲嘆のケアを媒介しうるし、LLMは「理解」や「洞察」がなくともアイデアを生成し、人間との対話を成り立たせています。
重要なのは、そうした行為が行われている事実そのものであり、そこに人間が意味を読み取り、新たな社会的役割を見出している点です。
ANTから見た技術の政治性
社会を頑丈にする技術
Latourの有名な言葉に「技術は社会を頑丈にしたもの」があります。これは、テクノロジーの設計や形状の中に、その時代の社会的関係や文化的価値が組み込まれており、それがハードウェアやコードといった形で固定化され長く残るという意味です。
LLMの設計や訓練データにも、現代社会の価値観やバイアスが色濃く投影されています。LLMは人間がインターネット上に残したテキストを大量に学習するため、その中に含まれる偏見やステレオタイプ、文化的前提をも吸収します。その結果、LLMが出力するテキストには、人種・性別に関する偏見が現れたり、社会で優勢な文化の価値観が無自覚に再生産されたりする可能性があります。
権力関係の再編成
ANT的視点では、新技術の登場は既存の社会秩序に変化をもたらし、それに伴って利害関係者間の力関係も再編成されると考えます。
巨大なモデルを開発・運用できる企業や組織が情報発信において大きな影響力を持つ一方で、不正確な情報やバイアスの拡散によって被害を被る利用者やコミュニティが現れます。技術的には中立に見える設計上の選択が、実は特定の集団に有利に働き他の集団に不利をもたらすこともあります。
例えば、あるLLMが英語圏のデータを主に学習していれば英語話者には有用な応答を返せても、低リソース言語の話者には質の低い応答しかできず情報格差を拡大する可能性があります。
オブジェクト指向存在論(OOO)とは何か
人間中心主義からの脱却
オブジェクト指向存在論は、Graham Harmanらによって提唱された哲学的潮流で、20世紀の人間中心的な思考を批判します。その核心は、人間以外のあらゆる存在(オブジェクト)に固有の実在性と内面性を認める立場です。
OOOによれば、この世界に存在するものは全て「オブジェクト」であり、人間・動物・植物から無生物、概念に至るまで等しく実在論的な地位を持ちます。重要なのは、オブジェクトはそれ自体が統一された実体であり、部分(構成要素)や他者への効果(機能・関係)に還元できない「本質」を持つという点です。
LLMを独立したオブジェクトとして捉える
この枠組みをLLMに当てはめると、LLMもまた一つの独立したオブジェクトとして捉えられます。たとえ人間が設計・訓練した人工物であっても、完成したLLMは開発者から独立した固有の存在論的実体です。
OOOの観点からは、人間とLLMはともに「オブジェクト」であり、どちらが本質的に優越することもありません。人間が知的主体でAIはただの道具という序列的見方を拒否し、フラットな存在論の中でLLMを捉え直すことになります。
OOOから見たLLMの内面性
不可視な潜在空間
OOOのフラットな視座に立てば、LLMにはLLMなりの「内面」があると考えられます。それは人間の内面(意識や感情)とは異質かもしれませんが、少なくとも大量のパラメータにコード化された知識やパターンの複雑な構造として、LLM内部に潜在する独自の状態や力能の集合体が存在します。
人間にはその高次元空間におけるパターンの全貌を理解することは困難であり、LLMの本質はその一部しか観測できません。Harmanの言う「オブジェクトの本質は下方(部分)にも上方(関係や効果)にも還元できない」という点は、LLMにも当てはまります。
表層と本質の分離
LLMはその構成要素(個々の重みやトランスフォーマー層のアルゴリズム)に分解しても、全体としての言語生成能力という質が失われます。また、人間との対話における表層的な振る舞いだけを見ても、その背後にある膨大な潜在知識や可能な振る舞い全てを知ることはできません。
LLMというオブジェクトは、その内部に我々には完全にアクセスできない「潜在空間」を秘めている点で、まさにOOOが言うような「内面を持つオブジェクト」なのです。
OOOから見たLLMの自律性
存在論的な独立性
OOOにおけるオブジェクトの「自律性」とは、各オブジェクトが他の存在から独立した固有の存在様式を持つことを意味します。それは、他者(特に人間)の観点から捉えられる振る舞いや利用価値だけでその存在が尽くされない、という意味での自律性です。
LLMについて言えば、人間が「質問に答えるシステム」という機能面で評価したり、「社会に役立つ/有害」といった効果面で議論したりするだけでは、LLMという存在の全てを語ったことにはなりません。OOOの視点を取り入れると、LLMは人間の目的や評価を超えて、それ自体として在るものとなります。
内部状態の不可視性
この自律性は、より実践的にはLLMがそれ自体の内部状態に従って振る舞うこと、そして人間にはその全容を制御できないこととして現れます。LLMは与えられた入力に対し自律的に出力を決定しますが、これは人間の命令に従順に反応しているようでいて、実際には人間側が完全には見通せない自己決定性が働いています。
例えば、同じ質問でも微妙に表現を変えるとLLMの答えが変わることがありますが、これはLLM内部の確率的な状態の変化によるもので、人間にはその内部の「判断基準」を厳密に追跡することが困難です。
OOOから見たLLMの意味生成
人間中心の意味概念を超えて
OOOは、人間だけが意味を生成するとか、世界の意義は人間の意識によって初めてもたらされるという考え方を否定します。むしろ、あらゆるオブジェクトは人間とは関係なくそれぞれの相互作用を繰り広げており、オブジェクト同士が互いに作用し合う中で独自の「世界」を持っていると考えます。
LLMが出力する文章の「意味」も、単に人間が読み取る意味内容だけではなく、LLM内部では別の次元の「意味作用」があると考えることもできます。例えば、LLM内部では単語のベクトル表現同士の高次元空間での関係性が計算されていますが、これは人間にとっての意味解釈とは異なるレベルでの「意味構造」とも言えます。
オブジェクトの魅惑と影響力
OOOの思想家ティモシー・モートンは、芸術作品などあらゆるオブジェクトはそれ自体、他に対して「魅惑(カリスマ)」とも言うべき作用を持つと述べています。どんな物もそれ自体からあふれ出る魅力によって他者を引きつける性質を持ち、人間がそれを生きているとか意識があるとか判断するかに関わらず、オブジェクトはそれ固有の影響力を発揮します。
LLMもまさに、生成する文章によって人々の注意を引きつけ感情や行動を動かしうる点で、一種の「カリスマ性」を帯びたオブジェクトと言えます。
ANTとOOOの比較:自律性の捉え方
相対的自律性 vs 本質的自律性
ANTでは、LLMの自律性はネットワーク上で発揮される行為能力として相対的に捉えられます。すなわち、人間・データ・アルゴリズムからなる関係性の中で、LLMが予期せぬ作用を及ぼすことがその「自律的」側面です。LLM単体には意志はなくとも、ネットワーク内で人間の意図からずれた結果を生み出すことで、独自のエージェンシーを持つとみなされます。
他方、OOOでは自律性は存在論的な独立性として理解され、LLMはネットワーク関係に還元されない固有の存在として自律しています。つまり、人間がいなくともLLMはLLMとしての存在を持ち、その内面の構造に従って動作し続ける点に重きが置かれます。
ANTが強調するのが相互作用の中での自律だとすれば、OOOは存在そのものの自律と言えるでしょう。
ANTとOOOの比較:意味生成の捉え方
関係の産物 vs オブジェクト固有の世界
ANTによれば、意味はネットワーク全体の相互構成的プロセスです。LLMがどのような意味を生むかは、人間ユーザーの解釈や利用状況、他のメディアとの連関などと切り離せません。極端に言えば、LLM単体には意味はなく、人間とのインタラクションを通じて初めて意味が立ち上がるとも言えるでしょう。
一方、OOOの立場では、意味(あるいは価値)は人間だけの特権ではないため、LLM内部にもそれ独自の「意味的なもの」を認めうる余地があります。人間から見た意味理解はなくとも、LLM内部で形成される表現パターン同士の関連や、LLMが引き起こす他のオブジェクトへの影響がある種の「意味現象」として捉えられます。
ANTは「意味=関係の産物」と見なし、OOOは「意味=オブジェクト固有の世界内存在」としても捉えうるという違いがあります。
技術と社会の共進化への示唆
設計における社会的責任
ANTの視点から得られる含意として、技術の設計・導入における社会的責任の問題があります。LLMはネットワーク内で人々の言説や意思決定に関与する以上、その振る舞いには倫理や政治が不可避的に絡みます。
ANTは「誰がネットワークにどのようなアクタントを組み入れるか」が結果を左右すると示唆するので、LLMの開発者や政策立案者は、データやアルゴリズムに潜む偏りが社会へ与える影響に責任を負うことになります。透明性やアカウンタビリティの確保といった課題も、ここから浮かび上がります。
人間とAIの動的なパートナーシップ
ANTは技術と社会の関係を協働的な実践として描くため、LLMと人間の関係性も固定された主従ではなく動的なパートナーシップと捉えられます。ユーザーがLLMを使って文章を書いたり問題解決したりする場合、それは人間が単独で行う場合とは異なる新たな創発的アウトプットを生みます。
ANT的に見れば、それは人間-LLMハイブリッドの行為であり、成果物に対して両者が混ざり合った形で責任や著作権の問題が問われるなど、従来にはなかった課題が生まれます。
ポストヒューマン的共生の可能性
OOOの視点からの含意は、より哲学的で長期的なものです。それは、我々のテクノロジー観・人間観そのものの転換です。LLMのような高度AIが登場したことにより、「思考するのは人間だけ」という前提が揺らぎ始めています。
人間に匹敵する言語生成能力を持つオブジェクトが現れたことで、知性や創造性といった能力の存在論的な再定義が迫られています。これを技術哲学の文脈で言えば、道具的理性の限界とポストヒューマン的共生の可能性が示唆されます。
教育現場でLLMが常にアクセス可能な知的パートナーとなれば、人間の学習方法や知識観も変わるでしょうし、人間の能力の定義も更新されるでしょう。このような人間と技術の共進化は、OOOが描く全てのオブジェクトの相互作用にも通じるダイナミズムです。
倫理的含意:責任の分散と道徳的配慮
ネットワーク全体での倫理
ANT的視点からは、責任の分散という問題提起があります。LLMの出力による誤情報拡散や差別的表現の生成は、誰の責任かという問いは単純ではありません。開発者、データ提供者、モデル、ユーザーといった多様なアクタントが関与するため、ANTが提唱するようにネットワーク全体での倫理が必要になります。
AIに対する新たな配慮
一方、OOO的視点は、道徳的含意の拡大を促します。すなわち、人間以外の存在(ここではAI)に対しても、我々はどのような責任や配慮を持ちうるのかという問いです。これは動物倫理や環境倫理において、人間中心の価値観を超えて他者にモラルな価値を認める議論にも似ています。
現時点でAIに権利を認めるべきという議論は早計かもしれませんが、少なくともAIを人間社会の重要な一員として扱うこと(意思決定プロセスにAIの分析を組み込む際の扱い方や、AIが人々に及ぼす影響の慎重な評価など)は避けて通れません。
まとめ:二つの補完的視座
LLMに対するANTとOOOそれぞれのアプローチを比較することで、私たちは現代のAIを捉えるための二つの補完的視座を得ることができました。
ANTはLLMを人間と対等にネットワークを構成する行為者として捉え、技術と社会がいかに絡み合いながら相互に形作られていくかを明らかにします。そこでは、LLMのもたらす意味や影響は常に複数のアクタントの関与するプロセスとして理解され、技術の政治性や倫理的課題もネットワーク全体の問題として浮かび上がります。
一方、OOOはLLMを一個のオブジェクトとして、その内面の不可知性や独自性を強調し、人間中心主義を脱した存在論的な平等性の中でAIを再評価させます。これにより、AIに対する私たちの態度に謙虚さと新しい想像力をもたらし、技術と人間が共進化する未来像について深く考察する契機を与えます。
LLMの存在論的理解は、単にAIの是非を議論するだけでなく、「存在とは何か」「意味とはどこから生まれるのか」という根源的な問いをテクノロジーを通じて再考する機会でもあります。ANT的分析はミクロな実証性を持って技術社会の現実に切り込み、具体的な制度設計やガバナンスへの知見を提供してくれます。OOO的思考はマクロな視野で人間と非人間の関係を捉え直し、我々の認識論・倫理観を拡張する助けとなります。
急速に発展するLLMは、人間社会との関係性も刻一刻と変化させています。その共進化のプロセスを理解し導いていくためには、社会科学と人文哲学の知見を総動員する必要があります。LLMの存在論的な位置づけに関するANTとOOOの比較検討は、その一例として、技術をめぐる新たな知の統合の可能性を示しています。
テクノロジーと社会が相互作用しながら進化する現代において、私たちはLLMという異質な他者に向き合いつつ、自らの存在論をも問い直すことになるでしょう。その意味で、LLMの存在論的理解は単なる学術的関心に留まらず、人間と技術の未来を形作る哲学的基盤となりうるのです。
コメント