AI研究

大規模言語モデル(LLM)の身体性欠如が暗黙知再現に与える限界と可能性

はじめに

ChatGPTやGPT-4といった大規模言語モデル(LLM)の登場により、AIが人間のような知的振る舞いを示すようになりました。しかし、これらのモデルが本当に人間の「暗黙知」を理解し再現できているのでしょうか。

本記事では、現象学的視点から身体性と知の関係を探り、エンボディメント理論による認知拡張の可能性、そしてLLMの模倣能力と認知的限界について最新研究を基に解説します。

現象学が示す身体性と知の本質的関係

メルロ=ポンティの身体性理論

現象学者メルロ=ポンティは「私たちの身体は世界の中にあり、世界は知覚する身体によって構成されている」と述べ、人間の知覚や理解が生身の身体を通じた直接的な世界との関わりに根ざしていることを明らかにしました。

この暗黙の身体的知識によって、私たちは意味を感じ取り世界を理解します。例えば、コーヒーカップを持つ際の力加減や、階段を降りる際のバランス感覚など、言語化困難な知識が無数に存在します。

ドレイファスの人工知能批判

哲学者ヒューバート・ドレイファスは、メルロ=ポンティやハイデガーの影響下で「身体を持たない機械は人間のような知性を獲得できない」と主張しました。

特にドレイファスは、人間の知識には言語化できない暗黙知が含まれており、それは規則やデータとして完全に記述できないため、コンピュータには実装できないと論じています。この立場から見ると、物理的身体や感覚運動的経験を持たないLLMは、人間のような深い理解や技能を本質的に欠いていると考えられます。

暗黙知のデータ化困難性

近年の論考でも「人間の暗黙知は人類が残したテキストには記録されていない」ため、テキスト訓練だけのLLMがそれを獲得するのは困難だと指摘されています。

コミュニケーションズ・オブ・ACMに掲載された議論では、「タコツー(暗黙知)は記録できないので、記録されたデータから統計的推論でそれを明らかにするのは難しい」と述べられ、人間の身体的技能のデータ化困難性が強調されています。

エンボディメント理論と認知の拡張

拡張心説とハイブリッド思考システム

認知科学におけるエンボディメント理論は、心的機能が脳内だけで完結せず、身体と環境を通じて成立すると主張します。アンディ・クラークは拡張心説において、人間の認知は脳・身体・環境を含むシステム全体に「拡張」していると述べています。

人間は道具やテクノロジーを自身の認知プロセスに組み込み「ハイブリッドな思考システム」を作り上げてきました。メモ帳に書き留める行為や指を折って数える仕草さえも、脳の負担を減らし認知を拡張する身体・環境ループの一部です。

LLMによる認知拡張の可能性

この観点では、AIやLLMもまた適切に活用すれば人間の認知を拡張する外部リソースとなり得ます。ただし、クラーク自身も指摘するように、人間が自分の心を「延長」して使う場合と、LLMのような外部エージェントに丸投げしてしまう場合とは直感的に異なります。

囲碁においてAIが生み出した斬新な手法は人間棋士に新たな着想を与え、人間の打ち手の多様性が増したとの報告もあります。このように拡張心の視点からは、LLM自体は身体を持たないものの、人間がLLMを環境の一部として取り込み活用することで、暗黙知の共有や新たな知的活動が可能になる見通しも示されています。

エナクティブ認知とセンスメイキング

エナクティブ認知科学(作用的認知)の立場では、知覚・認知とは生物が環境との相互作用の中で意味を創発する(sense-making)過程とみなされます。従来「生物的身体を持たないシステムには真の意味創出は不可能」と考えられてきました。

しかしLLMは驚くべき言語能力を示し、常識的知識問題を事実上克服してみせたため、身体性なきシステムでも一定の「意味のやり取り」ができているのではないかという議論を呼んでいます。ある研究者は「LLMを生物とは異なる新たなタイプの意味創出主体(センスメーカー)とみなすべきだ」と大胆に提案しています。

LLMの模倣能力と暗黙知習得の限界

統計的パターン学習による模倣

大規模言語モデルは膨大なテキストコーパスから統計的パターンを学習することで、人間のような言語運用を実現しています。LLMは人間の知的振る舞いを模倣する強力な仕組みですが、再現しているのはあくまでテキスト上で観測されたパターンであり、そこに含まれない暗黙知まで習得しているかは慎重に評価する必要があります。

ポラニーの逆説への挑戦

歴史的に見れば、暗黙知(ポラニーの言う「人は言明できる以上のことを知っている」)はAIにとって最大の難所でした。この「ポラニーの逆説」に対し、近年のAI(特に大規模な自己教師あり学習を用いるLLM)は非構造化データ中のパターン発見によって一部克服しつつあるとも言われます。

例えば、トップ営業マンの通話記録や優秀なカスタマーサポート担当者の対話ログをLLMに学習させることで、従来は言語化困難だった営業のコツや顧客対応の熟練技をAIが抽出し、新人へのコーチングに活用する試みが報告されています。

データ化可能な暗黙知の限界

しかし注意すべきは、AIが活用できる暗黙知はあくまでデータとして何らかの形で記録・提示されたものに限られるという点です。外科医の手術の「勘所」や職人の体さばきといった身体運動レベルの技能は、十分なセンサーデータや解説が存在しなければAIは取得できません。

また、多くの暗黙知は日常の会話や訓練の中で非公式に伝承されているか、全く伝達されず個人の中に留まっているため、データとして蓄積されていないケースも多々あります。こうした闇に埋もれた知恵は現状のLLMには手が届かない領域です。

実証研究が明かすLLMの認知的限界

世界モデルの欠如による推論の失敗

ChatGPTやGPT-4などのモデルは世界モデルの欠如ゆえに、複雑な推論や常識的判断で誤りを犯すことが指摘されています。例えばChatGPTは空間的な関係把握や時間的な因果推論、物理法則の理解、人間の心理予測といった様々な推論タスクで失敗を示します。

「物体の配置を変えたらどうなるか」や「ある出来事の前後関係の推測」といった物理・時系列推論問題に的確に答えられなかったり、空間ナビゲーションのような課題を解けない例が報告されています。

GAIAベンチマークによる定量評価

Meta AIらによるベンチマークGAIAは、日常的で人間には容易な466問から成り、ツール使用や段階的推論を要する課題を含みます。このテストでGPT-4(プラグイン使用)を評価したところ、最も簡単なレベルのタスクでさえ成功率はわずか約30%にとどまり、難易度全体の平均成功率でも15%程度でした。

一方、人間被験者は同じ問題群で平均92%もの高い正解率を示しています。特に連続したステップ推論や複数のツール活用を要する複雑な課題では、GPT-4は成功率0%と全く歯が立たなかったと報告されています。

身体性補完アプローチの試み

このような限界に対処するため、LLMに身体性を補完する仕組みを組み込む研究も進んでいます。例えばロボット工学の分野では、LLMをロボットの制御に組み込んだ「Embodied LLM」の試みがあります。

ある研究ではGPT-4を知覚センサー(カメラ映像や力覚センサー)と接続し、キネクト深度カメラから環境認識を行いながらロボットアームを制御するシステムを構築しました。その結果、人間が「コーヒーを淹れて皿に動物の絵を描いて」という抽象的な指示を出すと、ロボットはカメラ映像からマグカップを探し出し、コーヒーを注ぎ、ペンを使って皿に動物の絵を描くという一連の動作を成功させました。

今後の展望と研究課題

補完的関係の重要性

現時点では、人間とLLMの補完的な関係に着目し、LLMを認知拡張のツールとして活用しつつ、その限界を踏まえて人間の判断や経験を組み合わせることが重要だと示唆されます。

LLMは従来のシンボル操作AIでは太刀打ちできなかったような常識知識の問題に対し、大量データからのパターン学習で実用に耐える回答を生成できるようになりました。これは「AIには常識が欠如する」という従来の難問が緩和されたことを意味し、暗黙知の一部が統計的学習で代替可能であることを示唆します。

知能と理解の再定義

LLMの成功は我々に知とは何かを問い直させてもいます。身体を持たずとも言語的振る舞いが可能になった今、知能や理解の定義、そして人間ならではの知の領域は何なのかを再定義する必要があるでしょう。

最終的な目標は、機械の計算能力と人間の身体的・文脈的知恵を統合し、相互に補い合うシステムをデザインすることにあります。そのプロセスにおいて、暗黙知という人間知の核心にAIがどこまで迫れるか、引き続き理論的考察と実証研究の両面から明らかにしていく必要があります。

まとめ

大規模言語モデルは人間の暗黙知を一部模倣できるものの、その再現は表面的・限定的であり、人間の知能が持つ身体性由来の深みすべてをカバーするには至っていません。現象学的視点やエンボディメント理論が示すように、身体を通じた直接的な世界経験は知の形成において不可欠な要素です。

しかし同時に、LLMの言語能力は従来の常識問題の一部を克服し、認知拡張ツールとしての可能性を示しています。今後は人間とAIの補完的関係を深め、それぞれの強みを活かしたシステム設計が重要になるでしょう。暗黙知という人間知の核心にAIがどこまで迫れるかは、引き続き注目すべき研究テーマです。

生成AIの学習・教育の研修についてはこちら


研修について相談する

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

最近の記事
おすすめ記事
  1. 統合情報理論(IIT)における意識の定量化:Φ値の理論と課題

  2. 視覚・言語・行動を統合したマルチモーダル世界モデルの最新動向と一般化能力の評価

  3. 量子確率モデルと古典ベイズモデルの比較:記憶課題における予測性能と汎化能力の検証

  1. 人間中心主義を超えて:機械論的存在論が示すAI・自然との新しい関係性

  2. 対話型学習による記号接地の研究:AIの言語理解を深める新たなアプローチ

  3. 人間の言語発達とAI言語モデルの学習メカニズム比較

TOP