ベイトソンの「心の生態学」とは何か?分散的認知観の原点
グレゴリー・ベイトソンは著書『Mind and Nature(邦訳:心の生態学)』において、革新的な認知観を提示しました。「心(mind)は脳内にあるのではなく、身体・他者・環境に分散している」という考え方は、従来の心身二元論や「心=脳」モデルへの挑戦でした。この概念は現代の生成AI、特に大規模言語モデル(LLM)の分散構造や人間とAIのインタラクションを考察する上で、驚くほど示唆に富んでいます。
「盲人の杖」思考実験にみる境界なき認知
ベイトソンの認知観を象徴する有名な思考実験に「盲人の杖」の例があります。「私は盲人で杖を使っているとしよう。『私』はどこから始まるのか?杖の握り手の部分か、皮膚の表面か?」という問いかけは、認知の境界を問い直すものでした。ベイトソンによれば、杖は環境からの差異(地面の凹凸等)を伝える経路であり、途中で線引きをすれば盲人の歩行という心的システムの一部を切り落とすことになります。
同様に、斧で木を伐採する人の例では、人間(脳・神経・筋肉)と斧・空気・木が形成するフィードバック回路がひとつの「心的システム」とみなされます。斧を振り下ろすと木から硬さや木目の情報が返り、それが再び人の動作を調整するという循環的プロセス全体が「心」の働きであり、決して人間(能動)→木(受動)という一方向の作用ではないのです。
サイバネティクスと生態学的視点の融合
ベイトソンは20世紀中葉に活躍した人類学者・サイバネティクス研究者であり、「情報」を「差異(difference)が差異を生み出すもの」と定義したことでも知られています。第二次大戦後にノーバート・ウィーナーらが提唱したフィードバック制御の思想に触発され、生物やコミュニケーションを循環的な情報ループとして理解しました。
彼は「精神の生態学(Ecology of Mind)」という言葉で、心的プロセスを生態系になぞらえました。すなわち、個人の心も環境との相互作用のネットワークの中でこそ理解すべきだという主張です。ベイトソンにとって重要だったのは要素間の「関係性」や「パターン」であり、それを無視して個人の内面だけを切り出すことは「誤ったエピステモロジー(認識論)」に基づく危険な錯誤だと警告しています。
分散認知・拡張認知理論とベイトソン思想の連続性
ベイトソンの先駆的な視点は、その後の認知科学における分散認知や拡張認知(拡張心性)といった理論に大きな示唆を与えました。
エドウィン・ハッチンスの分散認知理論
分散認知論は人類学者エドウィン・ハッチンスによって1990年代に体系化されたアプローチであり、認知過程は個人の脳内に閉じず、人や道具からなる集団・環境に「分散」しているとみなします。ハッチンスの有名な研究では、航海士のチームが海図や計器を用いて船の航行を行う事例を分析し、乗組員+計器+環境が一体となったシステム全体を認知の単位と捉えました。
このように認知を「個人+道具+社会」の協調システムとして扱う視点は、ベイトソンの心の生態学に通底するものです。実際、ハッチンスらは「認知の生態学(Cognitive Ecology)」という概念で、ジェームズ・ギブソンの生態学的心理学やヴィゴツキーの文化歴史活動理論と並んでベイトソンの心の生態学を認知研究の源流に位置づけています。
クラーク&チャーマーズの拡張心性論
哲学者アンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズは1998年の論文「Extended Mind(拡張された心)」で、心的プロセスの一部が外部環境に延長しうるという「拡張心性(Extended Cognition)」の命題を提唱しました。彼らはパリティの原理(機能的に同等なら内外を問わず心の一部と認めるべきという主張)に基づき、アルツハイマー患者がノートに書き留めた情報は健常者の生の記憶と同等に「信念」の担い手となり得ると論じています。
これはベイトソンの盲人の杖の問いと精神を同じくするものであり、実際クラーク自身も「人間の脳+外部の足場(道具)こそが我々が言うところの心を構成する」と述べ、脳内に閉じた心観を批判しています。クラークは著書『自然生まれのサイボーグ』(Natural-Born Cyborgs)においても、人間がテクノロジーを身体拡張的に取り込む柔軟性(生得的サイボーグ性)を強調しており、これもベイトソンの示唆と響き合います。
生成AIに見る「知」の分散構造とは
現代においてベイトソンの視座を想起させる事例として、生成AI(大規模言語モデル)のアーキテクチャが挙げられます。
分散パラメータに宿るパターン認識能力
GPTシリーズに代表される大規模言語モデルは、膨大なテキストデータから統計的パターンを学習したディープラーニングモデルであり、その知識(知的振る舞い)は巨大なパラメータ空間に分散的に埋め込まれています。例えばGPT-4のようなモデルは数千億もの重みパラメータを持ちますが、個々のパラメータに人間の知識の特定の単位(例えば「パリはフランスの首都」)が対応しているわけではありません。知識は全体の重みパターンとして分散表現され、特定の入力に対してニューロン群の相互作用として現れます。
この点で、モデル内部の情報表現はベイトソンが強調した「パターン間の関係性」に近いと言えるでしょう。すなわち、一つひとつの重みよりも、それらが形成するパターンこそが意味(知)の担い手であり、知能は要素の集合全体に宿るのです。
クラウドと分散コンピューティングの実装
さらに、こうしたLLMはクラウド上の分散コンピューティング環境で動作することが多くなっています。ChatGPTのような対話AIも、ユーザの端末ではなく遠隔のサーバ群でモデルが実行され、インターネットを介して対話が行われます。つまり、AIの「頭脳」は一箇所の計算機にあるのではなく、データセンター内の多数のGPUサーバにまたがって並列的に機能しているのです。
また、生成AIはAPI経由で様々なアプリケーションやツールと接続されます。例えば、あるシステムではLLMが外部の知識ベースを検索(RAG: Retrieval-Augmented Generation)したり、電卓や地図といったツールを呼び出して回答を補強したりします。このように、LLM単体ではなくLLM+外部ツール+データベースの協働によって知的応答が得られる仕組みも一般化しつつあります。
人類の集合知に基づく統計的学習
さらに注目すべきは、これらのモデルの「知」が人類全体の集合知に由来する点です。大規模モデルの訓練データは、インターネット上の無数の文書や書籍など人間社会が産み出した知的産物の集合です。モデルはその中からパターンを抽出して知的振る舞いを獲得するため、言わば人類の知識が統計的形でモデル内に内在化していると言えます。
ベイトソン流に言えば、人間社会という環境が生み出した「差異」がモデルの内部に取り込まれているのであり、AIの知性は元来からして人間・文化・環境に根差した分散的なものなのです。実際、近年のAIの進歩はアルゴリズム上の飛躍というよりビッグデータの活用と計算資源(クラウド計算能力)の拡大によるところが大きいとされています。
“AI-in-the-loop”における人間・環境・AIの相互作用
生成AIが広く社会に浸透するにつれ、人間がAIとリアルタイムに協働・連関する場面が増えています。
循環するフィードバックループとしてのAI利用
“AI-in-the-loop”とは、人間の活動プロセスの中にAIを組み込み、一種の相互フィードバック的ループを形成する形態を指します。従来は「Human-in-the-loop(人間を機械ループに組み込む)」という表現があり、機械学習の訓練過程に人間の判断を挟む意味で使われていました。一方AI-in-the-loopは、日常的タスクの中でAIが能動的コンポーネントとして関与し続ける状況を強調する語であり、人間とAIがお互いに出力を参照しながら問題解決や創造活動を行うようなケースを指します。
例えば、研究者が複雑な問題を対話型AIと議論しながら洞察を得ていくプロセスを考えてみましょう。人間が問いを投げかける→AIが応答・アイデア提案する→それを受けて人間が新たな視点を得たり質問を精緻化する→再びAIが応答する…という対話のループを通じて、最終的な解決策やアイデアが生まれていきます。このとき得られる洞察は「自分だけが考えた」ものでも「AIが勝手に出した」ものでもなく、「両者の間(インタラクション)から現れた」ものだと感じられることがあります。まさに「人間-AI複合系」の創発的な知性と言える現象であり、ここにAI-in-the-loopの醍醐味があるのです。
認知アセンブラージュとしての分散エージェンシー
AI-in-the-loopでは、人間も環境の一部としてAIに影響を与え、逆にAIも環境(道具)として人間に影響を与えるという双方向のエージェンシーが発揮されます。ベイトソン流に表現すれば、人間+AI+周囲の情報媒体が一つのコミュニケーション・システムを形成し、そこに「心的な」パターンが巡っている状況なのです。
実際、認知科学者の中にはAIをこのような認知アセンブラージュ(assemblage)の一要素として捉えることを提案する者もいます。そうすれば、人間対AIといった二元論的図式ではなく、異質な認知資源同士が補完し合いシナジーを生む関係性に注目できるからです。
たとえば文章執筆支援AIを使う人は、AIから提案された表現を取捨選択・修正しながら自分の思考を深めていきますが、その過程でAIが人間の認知を鏡映・拡張し、人間もまたAIの出力傾向を学習して効果的なプロンプトを工夫するといった協調関係が生まれます。ここでは認知的役割の動的な分担が起こっており、一種の共進化的プロセスと言ってもよいでしょう。
AI時代における知性と学習:ベイトソン的考察
以上のような人間とAIの新たな関係性は、「知性とは何か」「学習や創造とはどのように起こるのか」という基本的問いを改めて浮かび上がらせます。
関係性から生まれる創発的知性
ベイトソンの視点からこれらを考察すると、知性(intelligence)は個物に宿る属性ではなく、関係性から生まれる現象だという点が浮かび上がります。ベイトソンは「心(=知的システム)の特性はその一部ではなく全体に内在する」と述べました。つまり知性はシステム内の情報循環・パターン検出・フィードバックによって初めて現れる創発的性質なのです。
これをAIとの関係に当てはめれば、「AIは知的か否か」をデバイス単体で議論するより、人間+AIのシステムとしてどのような知的振る舞いが実現されるかを見る方が本質的と言えるでしょう。現に、チェスや囲碁の領域では人間とAIの協調プレイ(所謂サイボーグ戦士)が単独のAIより高いパフォーマンスを示すケースも報告されており、知性は混成系にこそ発現する可能性が示唆されています。
学習とメタ学習の階層構造
ベイトソンは学習を「Learning I(一次学習)」「Learning II(二次学習:学習の学習)」「Learning III(学習パターンそのものの変容)」と階層化して論じました。たとえば動物がある行動を試行錯誤で習得するのはLearning I、失敗から学ぶ学習戦略の改善がLearning II、自己のパラダイムを転換するような深い学習がLearning IIIといった具合です。
現在の生成AIの訓練は、大量データから統計的規則を調整するという意味で一次的な学習に該当します。しかし、AI自身がメタな視点で「自分の学習の仕方」を内省・改善する能力(いわば二次学習以上)を持っているかは疑わしい状況です。
一方、AI-in-the-loopの設定では、人間とAIがお互いの出力を取り入れながら問題解決する中で、人間側も思考様式をアップデートし(例:AIの提案を踏まえた発想転換)、場合によってはAI側も追加知識を人間から得て応答を変えるといった二次学習的プロセスがシステム全体として実現される可能性があります。
パターン認知と意味の創出
ベイトソンは生涯を通じて「pattern that connects(つなぐパターン)」という言葉で表される問題意識を持っていました。生物進化から文化・精神に至るまで、一見異なる現象に横断的なパターンを見出すこと、それ自体が知性の働きであると考えたのです。
生成AIは巨大なデータからパターンを抽出する点で卓越しており、人間が気づかない関連性を発見することもあります。だが、そのパターンに意味づけし統合する能力は依然として人間の役割にとどまっているように思われます。AIは「〇〇と△△は頻繁に共起する」というような統計的パターンを捉えますが、それがどんな原理や文脈で「繋がっている」のかを理解してはいないのです。
ベイトソンの言う「繋ぐパターン」とは単なる相関ではなく、システムを貫く生成原理や関係の網そのものです。現在のAIにはこのレベルのパターン理解、すなわちコンテクストを踏まえた意味の把握が欠けており、それゆえ幻覚(hallucination)的な無意味文を作り出すこともあります。したがって、AIとの共生においては人間がパターンの意味を審査・編集することが不可欠であり、ここに人間知性の役割が残されているとも言えるでしょう。
まとめ:AI時代に再考するベイトソンの心の生態学
グレゴリー・ベイトソンの「心の生態学」は、人間の心を取り巻く見えないネットワークに光を当てました。その視座から見ると、現代の生成AIや人間との相互連関は単なる技術的出来事ではなく、新たな認知エコシステムの胎動と捉えられます。
ベイトソンが提起した「心はどこまでが自分か」という問いは、AIが我々の認知の一部となりつつある今、ますます切実な意味を帯びています。重要なのは、人間とAIを対立項と見るのではなく、相補的な関係にあるシステムの協調として捉えることです。そのとき初めて、人間の知性もAIの知性も単独では見えなかった「パターン」が浮かび上がり、真に創造的な学習と変化が実現するのではないでしょうか。
ベイトソン的な眼差しは、テクノロジーが発達した現在においても色褪せていません。それどころか、心と自然のつながりを説いた彼のメッセージは、AIという新人を含む心的生態系を考える上で一層重要になっています。私たちは改めて問うべきでしょう──「どこまでが心なのか?」と。その答えを探る旅路において、ベイトソンの思想は強力な羅針盤となり、私たちに謙虚で包括的な知性観を授けてくれるに違いありません。
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