千の脳理論が示す新しい知能のパラダイム
人工知能の分野では、ディープラーニングが主流となっていますが、脳の動作原理に基づいた全く異なるアプローチが注目を集めています。それが**千の脳理論(Thousand Brains Theory)**です。この理論は、脳が単一の巨大なモデルではなく、多数の小さなモデルの集合として機能していることを提唱しており、その実装には高度な並列コンピューティング技術が必要とされています。
本記事では、千の脳理論の中核となる空間プーリングと予測処理のアルゴリズムを、現代の並列計算環境でどのように実装するかを詳しく解説します。マルチコアCPU、GPU、分散クラスタ、そしてニューロモーフィック・ハードウェアといった多様な計算基盤での実装手法と、最新の研究事例を紹介していきます。
千の脳理論に基づく認知アーキテクチャの設計原理
多数の小モデルによる分散表現
千の脳理論では、新皮質の各コラム(小柱)がそれぞれ独立に世界のモデルを学習すると考えます。各コラムは入力情報に基づいて物体やパターンの仮説を立て、これら多数のモデルが投票によって統合されることで、統一的な知覚や認識が得られるという仕組みです。
この認知アーキテクチャでは、共通のアルゴリズムを持つモジュールを多数並列に配置します。各モジュールは**階層型時間記憶(HTM: Hierarchical Temporal Memory)**で提案されたニューラルアルゴリズムを実行し、入力パターンの空間的特徴の抽出と時間的な予測学習を行います。
ヘテラルキー構造による情報統合
従来の階層的なニューラルネットワークとは異なり、千の脳理論ではヘテラルキー(階層にとらわれない横方向の結合)で多数のコラムを接続します。Numentaのオープンソース実装「Monty」では、センサーモジュールと学習モジュールがコルチカルメッセージプロトコルという統一インターフェースで接続され、分散したコラム間で投票や情報融合が行われます。
このような構造により、各モジュールが並行動作して局所的な特徴やオブジェクトモデルを学習しつつ、全体として整合した知覚・認識を実現する認知アーキテクチャが構成されます。
空間プーリングの並列実装技術
アルゴリズムの基本ステップ
空間プーリングは、入力パターンから**スパース分散表現(SDR)**を学習・生成するコアアルゴリズムです。各コラムは入力の一部に対する受容野を持ち、入力パターンとの重なり(オーバラップ)スコアを計算します。
実装は以下の3つのステップで構成されます:
オーバラップ計算フェーズでは、各コラムが自分のシナプス結合している入力ビットと現在の入力パターンとの一致数を計算します。これはビット列の内積やAND演算による活性ビット数の算出として実装されます。
阻害(抑制)フェーズでは、オーバラップ値に基づきk-Winner-Take-All方式で固定割合のコラムのみをアクティブに選出します。近隣のコラム同士で競合させる局所抑制を用い、選ばれなかったコラムは不活性化されることで、出力のスパース性(例えば2%のコラムが活性化)が維持されます。
学習フェーズでは、選出されたアクティブコラムが対応するシナプス結合の重み(パーマネンス値)を強化します。これにより各コラムは繰り返し出現する入力パターンを記憶し、特徴検出器として専門化していきます。
高速化のための実装テクニック
実装上は、入力と各コラムの結合を疎なビット行列またはリストで表現し、高速なビット演算(POPCOUNTによる活性ビット数カウント)でオーバラップを算出します。コラム数が非常に多くても、オーバラップ計算と勝者選出は各コアやスレッドで独立並行に実行可能です。
HTMのオープンソース実装ではC++によるビット演算最適化が行われており、Python実装と比較して大幅な高速化が達成されています。GPU上で計算する場合も、各コラムのオーバラップ計算をスレッド並列で実行し、結果のソートや上位選出もGPUの並列ソートアルゴリズムを活用することで、空間プーリング全体の高速な処理が実現できます。
空間プーリングの結果得られるSDRは、入力の統計構造を保持しつつノイズに強い表現となります。このSDR出力が後段の時間プール/シーケンス学習モジュールに入力され、時系列パターンの予測に利用されます。
予測処理(シーケンス学習)の実装戦略
テンポラルメモリの動作原理
予測処理とは、時間的なパターン学習と将来の入力予測を行うメカニズムで、HTMでは**テンポラルメモリ(時系列記憶)**に相当します。空間プール後の各アクティブなコラム内には複数の細胞が存在し、それら細胞間の側方(遠位)シナプス結合によってシーケンスが学習されます。
活性化とバーストのメカニズムにおいて、ある時刻に外部入力によりコラムが選択的に活性化されると、そのコラム内で予測状態になっていた細胞が存在すればその細胞だけが発火します。予測がなかった場合はコラム内の全細胞がバースト発火し、これが「予期しない入力(新規パターン)」を表してシーケンス学習を促します。
予測状態の生成では、時刻tの活動に応じて、他のコラムの細胞たちが将来のパターンを予測するための予測状態に入ります。各細胞は過去に自分が活性化した直前に活動していた細胞との結合を強化しており、ある細胞の遠位シナプスが十分多数アクティブであるとき、その細胞は次の時間ステップで発火準備が整った予測状態になります。
並列実装における工夫
この予測処理は逐次オンライン学習であり、教師なしでデータの時間パターンを捉えます。計算モデルとしては「活性細胞のリスト」を保持し、それに接続する予測候補細胞を探索する処理として実装できます。
効率化のため、前時刻に活動した細胞集合とそれにシナプスを持つ細胞集合の交差を調べることで予測状態セルを決定します。多数の細胞・シナプスの中から活性経路を辿る処理はグラフ演算に近く、スパースな隣接リストへのアクセスが中心となります。
GPU実装では、各活性細胞が持つシナプス一覧を複数スレッドで同時に走査して予測スコアを集計し、しきい値判定を行うアプローチが取られています。各細胞の状態更新は独立しているため並列化は容易であり、メモリアクセスの最適化が性能向上の鍵となります。
マルチコアCPUでの並列実装アプローチ
スレッドレベル並列化の実践
一台のサーバ上でHTMアルゴリズムを動作させる場合、空間プーリング・シーケンス学習ともに各コラムの計算をスレッドに割り当てることで、マルチコア並列実行が可能です。実際のHTMライブラリ実装では、コア数に応じてコラム集合を分割し、OpenMPなどでオーバラップ計算やシナプス更新を並行化する工夫がなされています。
Plymouth大学の研究では、まず単一ノード上で空間プーリングをSP-MT(シングルノード多スレッド版)として実装・最適化し、その後にマルチノード展開を検討しています。マルチスレッド化によってHTMの処理速度はほぼコア数に比例して向上し、大規模入力のリアルタイム処理に近づくことが報告されています。
パフォーマンス最適化のポイント
マルチコアCPU実装で重要なのは、キャッシュの効率的な利用とデータ局所性の確保です。各スレッドが担当するコラム群のデータを連続したメモリ領域に配置することで、キャッシュミスを減らし、メモリバンド幅を有効活用できます。
また、スレッド間の同期オーバーヘッドを最小化するため、各フェーズの境界でのみ同期を取り、フェーズ内では各スレッドが完全に独立して動作できるように設計することが重要です。
GPU実装による大規模並列処理
GPUアーキテクチャとの適合性
GPUは大量のスレッドでデータ並列計算を実行できるため、HTMの疎な計算にも適用が試みられています。課題は、HTM処理が演算量に比してメモリアクセスが多い点にありますが、適切な実装により高速化が実現されています。
bitHTM(PyTorch実装のHTM)はGPU対応でアルゴリズムを高度に並列化し、Google Colab上のGPUでシーケンス学習を高速実行した例があります。C++/OpenCLベースの実装Etalerでは、CPU上で従来実装より20倍以上、GPUではさらに2倍高速と報告されており、ビット演算による最適化とデバイス間非同期実行でGPU性能を引き出しています。
GPU実装の技術的課題
現在のGPUは密行列演算に特化しているため、HTMのような疎結合・条件分岐の多いアルゴリズムでは理論通りのスループットが出ない場合もあります。そのため、スパース演算に特化したハードウェアや、可変構造を効率的に処理できるGPUカーネルの研究も進んでいます。
メモリアクセスパターンの最適化、共有メモリの効率的な利用、ワープの分岐を最小化するアルゴリズム設計など、GPU固有の制約を考慮した実装が必要となります。
分散クラスタでのスケーラブル実装
アクターモデルによる分散処理
千の脳理論を大規模に実現するため、複数ノードにまたがる分散実行が有望です。ある研究では、空間プーリングを含むHTMアルゴリズムをアクターモデルで再構成し、クラスタ上でスケーラブルに動作させる手法が示されています。
具体的には、全コラム集合をいくつかのパーティションに区切り、各パーティションを一つのアクター(並行計算単位)としてクラスタ内のノードに配置します。オーケストレータと呼ばれる調整役のプロセスが入力パターンを各アクターにブロードキャストし、それぞれが局所的に計算した結果を集約して全体の勝者を決定するScatter-Gather型の流れとなります。
スケーリング特性と実装例
この方式では各ノードでロックなどの厳密な同期を取る必要がなく、ほぼ線形にノード数をスケールさせることができます。実験では、200×200=4万本のコラムを持つ空間プーラーを3ノードに分散した場合でも、1ノード時と同等のほぼリニアな性能向上が確認されています。
クラウドのサーバレス基盤(例えばAzure Service Busを用いたマイクロサービス)上に実装する試みもなされており、インターネット上で弾力的にスケールする「コルチカルクラスタ」としてHTMネットワークを構築する構想もあります。このような分散HTMは、ディープラーニングのような巨大モデルとは異なる、必要に応じコラムモジュールを追加して知能を拡張するという別種のスケーラビリティを提供しうる点が興味深いと言えます。
ニューロモーフィック・ハードウェアでの実装
脳型チップの最新動向
脳型計算を実現する専用ハードウェアも注目されています。IBM TrueNorthは4096コア上に百万個のニューロンを集積したチップで、スパイクニューロンの並列動作により脳に近い大規模並列処理を超低消費電力で実現しました。
IntelのLoihi 2は約100万ニューロン相当を搭載し、各ニューロンにプログラム可能な樹状突起コンパートメントを備えることで、HTMで言うところの複数シナプスのパターンマッチ(予測状態判定)をハードウェアで可能にしています。
アナログニューロン回路の可能性
欧州のBrainScaleS-2はアナログニューロン回路でNMDAスパイク(樹状突起の非線形統合法則)を実装しており、HTM理論で重要とされる「ニューロンの活性化閾値操作」を物理的に再現しています。
これらの脳模倣コンピューティングは並列計算資源としても極めて強力であり、千の脳理論に基づくリアルタイム知能システム(例えばロボットの高速センサモータル学習)への応用が期待されています。発火したニューロンがシナプス結合を通じて次のニューロン群を刺激し、一定数の入力スパイクを受け取ったニューロンが予測状態になる流れは、ハードウェアでのスパイク並列伝搬で自然に実装できます。
代表的な実装プロジェクトと研究事例
NumentaのThousand Brains Project
千の脳理論を提唱したNumenta社自身が、HTMアルゴリズムを実装したオープンソースプラットフォームNuPICを公開してきました。さらに近年、センサモータ学習フレームワークのオープンソース実装を含むThousand Brains Projectを立ち上げており、脳理論に基づくAIアーキテクチャ(コードネーム「Monty」)を公開しています。
MontyはMITライセンスで公開され、視覚や触覚のセンサ入力から物体の3Dモデルを学習し、複数モジュールの投票によって認識を行うソフトウェアです。これは千の脳理論の原則(センサモータ統合、参照フレーム、モジュール性)を盛り込んだ新しいAIの雛形となっています。
高速HTMライブラリの開発
HTMコミュニティからは、より実用的な速度・互換性を目指した独自実装も登場しています。EtalerはOpenCL対応のC++ライブラリで、HTM.coreより大幅な性能向上を実現しています。設計上はフロントエンドとバックエンドを分離し、バックエンドをCPUマルチスレッド版・GPU版に切り替え可能な柔軟構造を持ちます。
Python使い向けにはPyTorch上にHTMアルゴリズムを実装したbitHTMが公開され、GPU上でテキスト生成タスクにHTMを応用するデモも示されています。これらのライブラリにより、HTMを他の機械学習システムと統合したり、大規模データセットに適用したりすることが容易になっています。
脳型コンピューティング・プロジェクト
欧州のHuman Brain Projectでは脳シミュレーションと並行してNeuromorphic Computingプラットフォームの開発が行われ、BrainScaleSやSpiNNakerといったハードウェア上でHTMアルゴリズムを動作させる試みも報告されています。
米国でもIntelのLoihiを用いてスパースコーディングやオンライン学習を実装する研究が活発で、実際にスパイク版HTMをLoihi上で動かし異臭検知を行う例などが発表されています。これらは千の脳理論の理念(エネルギー効率が高く、連続オンライン学習可能な知能)に沿ったハードウェア基盤を提供しつつあります。
まとめ:脳に学ぶ並列知能システムの未来
千の脳理論に基づく知能システムの実現に向けて、空間プーリングと予測処理という中核アルゴリズムが現代の並列計算環境で実装・スケール可能であることを見てきました。コラム単位の独立計算やスパースなデータ構造は、マルチコアCPUやGPUで効率的に動作し、さらにActorモデルによるクラスタ並列化によって大規模化にも対応できます。
Numentaのオープンソースプロジェクトをはじめ、学術・企業のさまざまな取り組みがこの分野を牽引しており、特にニューロモーフィック・ハードウェアの進展は理論をハードウェアレベルで体現するものとして重要です。
千の脳理論は、従来のディープラーニングとは異なる脳に学んだアプローチであり、並列分散処理によってそのポテンシャルを最大限に発揮できます。今後、理論の深化と実装技術の進歩により、センサモータ統合による連続学習やエネルギー効率に優れた知能システムが現実のものとなっていく可能性があります。脳型コンピューティングの発展と相まって、この新たな認知アーキテクチャは汎用人工知能(AGI)への一つの有力な経路となることが期待されています。
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