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量子もつれで脳と脳をつなげるか?脳-脳インターフェース(B2BI)の理論的可能性と現実

はじめに:「量子テレパシー」は科学になり得るのか

「離れた二人の脳を量子もつれで結び、思考を直接やりとりする」——SF的に魅力的なこの構想は、量子情報科学と神経工学の両方から検討すべきテーマとして浮上しています。量子コンピュータや量子通信の研究が加速し、一方で脳-コンピュータインターフェース(BCI)の臨床応用が進む今、両者の接点を問うことには一定の意義があります。

本記事では、量子もつれを利用した脳-脳インターフェース(Brain-to-Brain Interface: B2BI)の可能性を、物理・生物・工学・倫理の各面から整理し、現段階で何が言えて何が言えないのかを明確にします。

量子もつれとは何か——「通信」に使える条件と使えない条件

量子もつれ(エンタングルメント)は、二つ以上の量子系の状態が古典的には説明できない形で相関する現象です。量子暗号や量子計算において中核的な資源とされていますが、ここで重要なのは「もつれ単独では情報を送れない」という基本原則です。

これは「ノーコミュニケーション定理(no-signalling theorem)」として知られ、もつれた粒子の一方を測定しても、もう一方の測定結果の統計から情報を読み取ることはできないことを意味します。つまり「脳Aと脳Bをもつれで結ぶだけで思考が伝わる」という素朴なイメージは、量子情報理論の基本構造と整合しません。

では量子テレポーテーションはどうでしょうか。量子テレポーテーションは、事前に共有されたエンタングルメント対と古典通信チャネルを組み合わせることで、未知の量子状態を遠隔地に再構成する手法です。しかし、古典通信が必須であるため超光速にはならず、またノークローニング定理により量子状態は「コピー」ではなく「転送」されます。仮に脳の状態を量子的に定義できたとしても、それを複製して複数の脳に配ることは原理的に制限されるのです。

脳は量子コンピュータなのか——デコヒーレンスという壁

脳-脳量子インターフェースが成立するためには、脳内に量子コヒーレンスが神経機能に影響を与える時間スケールで維持されている必要があります。しかし現時点では、この前提を支持する合意的な実験証拠は得られていません。

ヒトの脳は約37℃の水溶液環境にあり、膨大な分子との相互作用に晒されています。物理学者Max Tegmarkによる推定では、神経系の関連する自由度のデコヒーレンス時間は10のマイナス13乗秒からマイナス20乗秒のオーダーとされ、ニューロンの発火時間(ミリ秒)と比べて桁違いに短い可能性が指摘されています。この推定には仮定依存の部分もありますが、少なくとも脳全体を量子ビットとして扱う構図が現実から遠いことを示唆する材料です。

量子生物学の文献では、光合成の励起子輸送や鳥類の磁気受容(ラジカルペア機構)など、特定の分子プロセスにおける量子効果の寄与が議論されています。ただし、これらは分子レベル・短時間・特定反応座標に限られた現象であり、脳全体のネットワーク動態を支配するような量子コヒーレンスの存在を示すものではありません。

Roger PenroseとStuart Hameroffが提唱した「Orch-OR(orchestrated objective reduction)」仮説や、Matthew Fisherが提案したリン核スピン・Posner分子仮説も注目を集めてきました。しかし、Orch-ORはデコヒーレンスと生理学的妥当性への批判が続いており、Posner分子仮説もスピン緩和の制約評価や反証的報告が出され、いずれも未確立の段階にあります。

既存の脳-脳インターフェース研究が示していること

ここで「脳同士をつなぐ」研究はどこまで進んでいるのかを確認しておく必要があります。答えは、すべて古典的な情報伝送に基づいている、ということです。

ラットを用いた実験では、一方の個体の皮質活動パターンを抽出し、電気刺激として別個体の皮質に伝えることで、課題に関する情報を行動レベルで伝達する実証が行われています。ヒトでは、送信側の脳波(EEG)で意思決定を読み取り、受信側に経頭蓋磁気刺激(TMS)で情報を伝える枠組みが報告されています。さらに3人の参加者をつないだ「BrainNet」実験では、EEGとTMSをインターネット経由で組み合わせ、協調的な課題解決が可能であることが示されました。

これらは概念実証として意義がありますが、転送される情報量は1ビット程度の意思決定に限られ、「思考や意識そのものの共有」とは大きな隔たりがあります。そして何より、量子資源は一切使われていません。

量子技術が脳-脳インターフェースの「周辺」で活きる道

「量子もつれで脳同士を直結する」のは現段階で支持されない——では、量子技術はこの分野に無関係なのでしょうか。そうではありません。量子技術を「脳状態の転送手段」ではなく「脳データを支える基盤技術」として位置づけることで、現実的な貢献が見えてきます。

量子鍵配送(QKD)による脳データ通信の保護

脳データは個人の精神状態や行動傾向に直結する極めて高感度な情報です。BCIが無線通信やクラウド処理と結びつくほど、盗聴や改ざんのリスクが増大します。ここで量子鍵配送(QKD)を用いれば、情報理論的に安全な鍵共有が可能になり、脳データ通信の信頼性を格段に高められる可能性があります。日本の「Tokyo QKD Network」のようなフィールド実証は、都市圏レベルでのQKD運用が現実に近づいていることを示しています。

量子センサーによる脳計測の高精度化

窒素空孔(NV)中心を利用したダイヤモンド磁気センサーで単一ニューロンの活動電位に伴う磁場を非侵襲に検出した報告があり、量子計測技術が神経科学に応用できる有力な実験例です。また、光ポンピング磁力計(OPM)を用いた脳磁図(MEG)は、従来のSQUID型MEGに対して装置の柔軟性や装着性で優位性を持ち得るとされています。

つまり、量子技術で「より良いBCI」を実現し、それを古典通信で結ぶ方が、「量子もつれで脳を直結する」よりもはるかに合理的な研究戦略なのです。

倫理・法規制——量子B2BIが「もし」実現したときへの備え

技術的な議論と並行して、倫理・法規制面の整備も進んでいます。ニューロテクノロジーが扱う神経データは、個人のプライバシーの最も深い層に触れるものです。

OECDは2019年にニューロテクノロジーの責任あるイノベーションに関する勧告を採択し、安全性・プライバシー・信頼といった価値原則を提示しました。UNESCOは2025年11月に神経技術の倫理に関する勧告を採択し、神経データやメンタルプライバシーの国際的な枠組み形成が加速しています。チリでは「ニューロライツ」の議論が憲法的保護のレベルで進められています。

仮に量子もつれを介した脳-脳接続が将来可能になった場合、従来のBCI以上に「同意の実質性」「可逆性」「アクセス制御」「監査可能性」が厳しく問われることになります。現段階の研究においても、脳データの最小収集・目的限定・セキュリティバイデザイン・透明性・救済手段を組み込んだガバナンス設計が不可欠です。

まとめ:量子は「脳を結ぶ媒体」ではなく「脳データを支える基盤」

量子もつれを利用して脳同士を直接つなぎ、思考や意識を転送するという構想は、量子もつれ単独では通信にならないこと、量子テレポーテーションに古典通信と精密な量子資源制御が必要なこと、そして脳の認知レベルの自由度がデコヒーレンスにより実効的に古典的である可能性が高いことから、現段階では理論・実験の両面で支持されません。

一方で、量子技術を脳-脳インターフェースの「周辺」——セキュリティ、計測、認証——に組み込む方向には現実的な道筋があります。QKDによる脳データの保護、量子センサーによる非侵襲計測の高精度化、そしてこれらの既存B2BI技術との統合が、短中期で最も成果の見込める研究戦略です。

「量子=脳を結ぶ通信媒体」ではなく「量子=脳データと脳計測を支える基盤技術」。この認識の転換が、この分野の健全な発展にとって重要といえるでしょう。

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