導入:量子力学が問いかける時間の本質
私たちが日常的に感じる「時間の流れ」は本当に実在するのでしょうか。量子力学の**多世界解釈(Many-Worlds Interpretation, MWI)**は、この根源的な問いに対して驚くべき答えを提示します。観測のたびに宇宙が分岐し、あらゆる可能性が並行して実現するというこの解釈は、時間の性質そのものを再考させる力を持っています。
本記事では、多世界解釈における時間概念を、ブロック宇宙論(永遠主義)や現在主義といった対照的な時間観と比較しながら解説します。さらに、哲学者デヴィッド・ルイス、物理学者ジュリアン・バルボア、カルロ・ロヴェッリの議論を通じて、現代物理学と哲学が交差する時間論の最前線に迫ります。

多世界解釈が描く「分岐する時間」の正体
観測ごとに枝分かれする宇宙
多世界解釈では、量子状態の重ね合わせは観測によって一つに収束するのではなく、全ての可能性がそれぞれ異なる世界として実現します。これは「波動関数の収縮」を認めず、シュレディンガー方程式に従った決定論的な進化を貫く立場です。
この描像において時間は単一の直線ではなく、樹状に枝分かれする構造を持ちます。過去は一つですが、未来は複数の世界に分岐し、それぞれが並行して存在するのです。私たちは自分の属する枝の中で単一の未来しか経験しませんが、宇宙全体の視点では全ての未来が同時に実在しています。
時間対称性と不可逆性のパラドックス
興味深いことに、MWIにおける時間進化そのものは完全に時間対称的です。シュレディンガー方程式は可逆的であり、原理的には過去から未来への特権的な方向性は存在しません。では、なぜ私たちは「時間の矢」を感じるのでしょうか。
答えはデコヒーレンスと熱力学的過程にあります。各世界内部では、エントロピーの増大によって見かけ上の不可逆性が生じます。一度分岐した世界線は実質的に再び収束することがなく、これがマクロレベルでの時間の方向性を生み出すのです。
ブロック宇宙論との驚くべき整合性
過去・現在・未来が等しく実在する世界
ブロック宇宙論は、時間を空間と同等に扱い、宇宙の歴史全体を四次元的な時空間ブロックとして捉える立場です。この見方では、過去・現在・未来のすべてが「同じように」存在しており、時間の流れは観測者の主観にすぎません。
アインシュタインの相対性理論が示すように、観測者によって同時刻の定義が異なるため、宇宙全体で見た絶対的な「今」は存在しません。この相対論的時空観は、ブロック宇宙論と自然に調和します。
MWIが拡張する「ブロック多宇宙」の概念
多世界解釈は、このブロック宇宙論を量子的多元論で強化したものと捉えられます。ブロック宇宙が「過去・現在・未来の全実在」を主張するのに対し、MWIは「その各時点における全ての分岐パターンも実在する」と拡張するのです。
結果として浮かび上がるのは、ブロック・マルチバースとでも呼ぶべき巨大な構造です。そこでは各世界線が並行して存在し、それぞれで過去から未来への軌跡が刻まれています。Matt O’Dowdが「硬直した一つの宇宙と、常に進化し続ける未来を持つ宇宙との折衷のようだ」と表現したように、MWIは決定論と開かれた未来の両立を可能にします。
重要なのは、MWIが波動関数の収縮という非局所的過程を必要としない点です。コペンハーゲン解釈では観測の瞬間に全宇宙で確率的な収縮が起こる必要がありますが、MWIならそうした特殊な時間発展を仮定せずに済むため、相対論的な枠組みと相性が良いのです。
現在主義との根本的対立
「唯一の現在」という幻想
**現在主義(Presentism)**は、今この瞬間だけが実在し、過去は消滅し、未来はまだ存在しないとする立場です。これは私たちの直感に最も近い時間観かもしれませんが、現代物理学とは相容れません。
相対性理論が示すように、異なる慣性系では時間の進み方や同時性の概念が異なります。したがって「宇宙全体で唯一の現在」など定義できず、現在主義は物理学的に困難なのです。
MWIが否定する「一つの現実」
多世界解釈は、現在主義の根幹をさらに深く揺さぶります。MWIでは複数の世界が並行して存在しますが、現在主義では「唯一の現在に属する存在」しか認めません。
エヴェレット自身が明言したように、「重ね合わせの各要素(各枝)は他と同じだけ実在し、どれか一つ以外が破棄される必要はない」のです。これは現在主義的な「一つの現実」観への明確な否定と言えるでしょう。
現在主義の立場でMWIを解釈しようとすれば、「観測のたびに様々な結果が起きる可能性はあるが、現実化するのは常に一つだけ」という骨抜きされた解釈になり、これはもはやコペンハーゲン解釈に近いものです。MWIの本質は「全て起きる」ことにあり、現在主義とは対極に位置します。
三人の思想家が照らす時間の深層
デヴィッド・ルイス:可能世界と四次元主義
分析哲学者デヴィッド・ルイスは、論理的に可能なあらゆる世界が実際に存在するという大胆な可能世界論を提唱しました。彼は同時に四次元主義の立場を採り、物体は時間的にも延長を持つ「時空のワーム」として実在すると考えました。
ルイスは現在主義を批判し、「過去や未来が存在しないとすれば、人がかつて立っていたという性質をどう持つのか説明できない」と指摘しました。この論理構造は、MWIが必要とする「他の時間・他の結果の実在」を受け入れる土壌となります。
ルイスの可能世界は互いに完全に分離していますが、MWIの世界は共通の過去から分岐する「発散する世界」です。両者には違いがありますが、多元的リアリティを等しく認めるという点で思想を共有しています。
ジュリアン・バルボア:時間の消滅と「永遠の今」
理論物理学者ジュリアン・バルボアは、著書『時間の終焉』で「時間そのものは存在しない」という衝撃的な主張を展開しました。彼によれば、宇宙には絶対時間も流れる固有時間も存在せず、あるのは「瞬間(Now)」の集合だけです。
バルボアは宇宙の各瞬間を「全ての存在が特定の関係に配置された状態」と定義し、これを「ナウ」と名付けました。全ての可能な配置が存在する空間を「プラトニア(Platonia)」と呼び、そこでは時間の流れは意識の産物にすぎないと論じます。
この極端な無時間論は、MWIを究極まで押し進めた像に近いものです。MWIでは全宇宙の波動関数が四次元全体を覆う構造として存在し、時間はその中で観測者が経験する主観的なものにすぎません。バルボアのプラトニアは、この静的イメージをさらに徹底させたものと言えるでしょう。
カルロ・ロヴェッリ:関係的時間と熱力学的秩序
ループ量子重力の研究者カルロ・ロヴェッリは、著書『時間は存在しない』で、時間は基本的な実在ではなく、関係的・熱力学的な現象だと論じました。
相対性理論により絶対的な「今」は意味を失い、量子重力理論では根本方程式に時間変数が現れません。ロヴェッリによれば、私たちが感じる時間の矢は宇宙初期のエントロピーの低さに起因する熱力学的効果なのです。
彼が提唱する**関係的解釈(RQM)**では、量子状態は観測者ごとに相対的に決まります。これはMWIとは異なるアプローチですが、「客観的な単一履歴の否定」という点で共通しています。ロヴェッリの時間論は、MWIの各枝で観測者が一方向の時間流を経験する理由を、物理学的に裏付けるものとなっています。
まとめ:時間の新しいパラダイムへ
多世界解釈における時間概念は、分岐的で非線形であり、従来の一元的・動的な時間観とは根本的に異なります。それはブロック宇宙論と深く調和し、過去・現在・未来のみならず、その全ての分岐パターンまでもが実在する静的な構造を示唆します。
一方で、現在主義とは論理的に対立します。唯一の現在のみが実在するという直感的な時間観は、相対論とも量子論とも整合せず、多世界解釈の根幹である「全ての可能性の実現」とも相容れません。
デヴィッド・ルイスの四次元主義、ジュリアン・バルボアの無時間論、カルロ・ロヴェッリの関係的時間観——これらの議論は異なるアプローチから、MWIの時間概念を支える理論的支柱を提供しています。三者とも「唯一の現在」や「時間の客観的流れ」を否定する点で一致しており、現代物理学が導く新しい時間のパラダイムを示唆しています。
「一つの現在が流れる」という私たちの直感は、もしかすると壮大な錯覚なのかもしれません。多世界解釈が示すのは、多元的な現在が静的に、あるいは関係的に存在する時間という、奇妙でありながら論理的に整合した世界観なのです。
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