バラドが提起する「物質と意味のもつれ」という問い
現代の科学技術社会において、私たちは物質と情報、自然と文化を別々の領域として扱いがちです。しかし理論物理学者でフェミニスト理論家のカレン・バラドは、こうした二分法そのものを根底から問い直します。彼女が提唱するエージェンシャル・リアリズムは、量子物理学の知見とフェミニズム批判理論を統合し、物質性を動的な「もつれ合い」として捉え直す試みです。本稿では、バラドの理論的背景から現代AI論への示唆まで、その思想の核心を探ります。

エージェンシャル・リアリズムとは何か:物質を「行為」として捉える
現象としての世界:固定された「モノ」から関係性へ
バラドのエージェンシャル・リアリズムにおいて、世界の基本単位は個別の「モノ」ではなく「現象」です。現象とは、複数のエージェンシー(作用する主体)が相互に絡み合って生起する出来事を指します。従来の物理学や哲学では、まず独立した物体が存在し、それらが相互作用すると考えられてきました。しかしバラドは、事物が先にあってそれらが関係するのではなく、関係の中から事物が構成されると主張します。
この視点は、主体と客体、原因と結果といった区分も固定的ではないことを意味します。これらの区別は、特定の関係性のなかで後から分化して立ち上がるものなのです。バラドはこの洞察を「存在論的分離不可能性」と呼び、あらゆる存在がもつれ合う諸エージェンシーの現象として成り立つと説明します。
物質性の再定義:受動的実体から能動的プロセスへ
バラドは物質性を従来のような受動的・静的な実体ではなく、生成的で意味と切り離せないプロセスとして再定義します。彼女によれば、物質とは固定的な本質ではなく、内部作用しながら生成していく実質であり、「もの」ではなく「行為」です。バラドは「物質とはエージェンシーの凝固である」と述べ、時間を通じた様々な力の絡み合いが物質という形で固まって現れることを指摘します。
この「エージェンシーの凝固」という概念は重要です。物質的な存在には常に何らかの意味や作用が伴っており、逆に意味や知識の産出は常に物質的な装置や身体を介して行われます。バラドはこの物質と意味の不可分な関係性を「物質的‐記号的(material-discursive)」実践として捉えます。科学実験で得られるデータから日常会話に至るまで、そこには必ず物質的な配置と記号的な操作の両面が絡み合っているのです。
言語論的転回への批判:物質に固有の発話力を取り戻す
バラドの理論は、20世紀後半以降の「言語論的転回」への批判的応答でもあります。ポスト構造主義やポストモダン思想では、言語や表象に過剰な力が与えられ、物質的現実は言説の産物として扱われる傾向がありました。バラドはこの流れを評価しつつも、物質にも固有の発話力(agency)があることを理論化しようとします。
彼女の立場は新しい物質主義(New Materialism)の代表例として位置づけられ、デカルト的な心身二元論や伝統的な表象主義を乗り越えて「物質と意味の編み目」から世界を捉え直す試みです。ジュディス・バトラーやミシェル・フーコーといった思想家の議論に共鳴しつつも、記号と物質の関係を再構成する点に独自性があります。
「内部作用」とボーアの量子論:主体と客体の共構成
ニールス・ボーアからの着想:観測が現象を確定する
バラド理論の中核概念である「内部作用(intra-action)」は、デンマークの物理学者ニールス・ボーアの量子力学哲学から着想を得ています。ボーアは電子などミクロの現象を記述する中で、観測対象と観測装置の間にはあらかじめ明確な境界はなく、それらは観測という相互作用の中で現象として初めて確定すると洞察しました。
電子の位置や運動量といった性質も、どのような装置で測定するかによって確定します。測定される前から電子が独立した「客体」としてその性質を持つわけではないのです。この量子力学の知見は、観察者と観察対象の関係についての根本的な問いを投げかけます。
内部作用:相互作用を超える概念
バラドはボーアの主張を発展させ、従来の「相互作用(interaction)」概念を批判的に見直しました。「相互作用」という言葉には、互いに作用し合う主体同士が最初から別々に存在していることが前提とされています。しかし実際にはそうではないとバラドは指摘します。
そこで彼女は「内部作用(intra-action)」という新しい用語を導入しました。内部作用では、存在論的に分離不可能なエージェンシー同士が内在的な関係性から共に立ち現れます。関係する各要素(人間・非人間を問わず)は互いの内側から作用しあって新たに共構成されるため、独立した実体が外から影響し合う相互作用とは異なります。
バラドが使う「現象」とは、そのようにして生起する一回限りの関係性の塊であり、要素どうしは現象の中で切り離せないもつれ(エンタングルメント)を形成します。したがって、伝統的には別物と考えられてきた主体(観察者)と客体(観察対象)ですら、内部作用によって同時に共に生成する相関的存在なのです。
エージェンシー切断:境界はどのように生まれるのか
では、主観と客観はどのように区別されるのでしょうか。バラドはボーアの議論を踏まえて、観察に際して用いられる「装置(apparatus)」という物質的配置が重要だと指摘します。
ある現象を測定・記述しようとするとき、観察者は必ず何らかの装置や手法を選択します。その装置の具体的な構成によって初めて「何を観測対象とし、何を切り捨てるか」の境界が現実に定まるのです。バラドはこの境界生成のプロセスを「エージェンシー切断(agential cut)」と呼びました。
エージェンシー切断とは、もともと絡み合っている観察者‐装置‐対象の関係のなかから特定の一線を画し、「ここからこちらを主体側、そこから向こうを客体側」と区別する行為です。主観と客観の分離はあらかじめ与えられているのではなく、測定装置・手法の選択という具体的実践を通じて実現されるものなのです。
重要なのは、この切断には必ず何らかの排除が伴うという点です。選択された装置・条件の下で観測されなかった変数やデータにも目を配り、それらが本当に無視し得るものか検討する態度が求められます。バラドは、エージェンシー切断には認識論的・倫理的課題が内在すると強調します。何を可視化し何を見落としているのか、誰が何に責任を持つのかという問いが常に伴うのです。
フェミニスト理論・ポストヒューマニズムとの対話
バトラーとフーコーの批判的継承
バラドのエージェンシャル・リアリズムは、フェミニスト理論やポストヒューマニズムの影響を大きく受けつつ、それらへの批判的継承でもあります。ジュディス・バトラーは「パフォーマティヴィティ」論を通じて、言説が現実(身体など)を規定する働きを論じました。バラドはバトラーやフーコーの業績を評価しつつも、彼らの理論では「言説と物質の関係」が十分に説明されていないと指摘します。
バトラーは身体の物質性も歴史的言説の産物と示唆しましたが、その「物質そのものの能動性」については深掘りされていませんでした。バラドはこの不足を埋めるためにボーアの量子論を導入し、物質的なもの自体にもパフォーマティブな力があることを示そうとします。彼女の理論は「人間中心主義的な主体概念」を超えて、物質・非人間的存在まで含めたポストヒューマン的なパフォーマティヴィティの概念を提唱しています。
ポストヒューマニズムへの貢献:人間と非人間の境界を超えて
「ポストヒューマニズム的」とは、人間だけでなく動物や技術、物質など人間以外の主体性をも視野に入れた見方を指します。エージェンシャル・リアリズムは、人間と非人間(動物・物質・テクノロジー)の境界を流動化し、それらの相互構成的関係性を問う点でポストヒューマン的です。
バラドはドナ・ハラウェイの「ネイチャー=カルチャー」や回折的読み取りといった概念にも影響を受け、科学と文化を二分せず「相互に読み透かす(diffractive)」方法論を提唱しました。これは異なる領域の知見を互いに重ね合わせ、その差異パターンから新たな洞察を得る手法で、フェミニストの知識生成論としても画期的なものです。
倫理学と認識論の統合:立場性と応答責任
フェミニスト哲学においてバラドの貢献が光るのは、倫理学と認識論の統合にあります。彼女は知と存在の絡み合い(onto-epistemology)を強調することで、知識を得る行為そのものが倫理的責任を伴うと主張しました。これはフェミニズムにおける立場性(situated knowledge)の議論とも響き合います。
誰がどのような装置でもって世界を切り取るかによって、見える現実も変わり、その切り取り方には責任が生じます。バラドの理論は科学的実践を分析する中でこの問題を正面から扱い、客観性を担保しつつも自己省察的で応答責任のある科学を志向します。こうした姿勢はフェミニスト批評の「客観性の部分的視点」とも通じ、権力関係に無自覚な科学技術への批判的視座を与えるものです。
AI・生成技術への示唆:物質性から見た人工知能論
AIの「非物質性」という神話を解体する
近年注目を集める生成系AIやその他の人工知能技術にも、バラドの理論は新たな視点を提供します。従来、AIはしばしば非物質的なソフトウェアとして捉えられ、アルゴリズムの論理やデータ上の計算に重きが置かれてきました。しかし新しい物質主義的な立場からは、AIにも物質的基盤や身体性が不可欠であることが強調されます。
クラウドと称されるシステムの裏側には、巨大なデータセンター(無数のサーバや冷却装置)、それを動かす電力インフラ、人間によるデータ収集・クリーン作業など、多くの物質的・労働的リソースが存在します。にもかかわらず一般にはこれらが「見えないもの」とされ、AIはあたかも純粋にバーチャルで自律的な知性のように語られることがあります。
バラドの視点を適用すれば、こうした見方自体が一種の表象主義的錯誤であると捉え直せます。AIという現象も、それを成り立たせる膨大な物質的・社会的要素との絡み合い(エンタンングルメント)によってのみ理解可能なのです。
AIもまた「現象」である:人間と非人間の共構成
AIシステムの振る舞いや出力される「意味」は、アルゴリズム(数理モデル)とデータだけで決まるのではありません。データが収集された社会的文脈やモデルを動かすハードウェア環境、さらには利用者との相互作用といった要因と不可分に結びついています。
AIもまた一つの「現象」であり、人間(開発者やユーザ)と非人間(データセット、計算機資源、ネットワーク)が内部作用的に共構成する存在なのです。例えばChatGPTのような生成AIであれば、トレーニングに用いられた大量のテキスト資源、モデルのパラメータ調整、APIを通じたユーザからのプロンプト入力など、数多くのエージェントの作用が絡み合って回答という現象が出現しています。
ここでは人間(ユーザ)の問いかけとモデルという非人間的プロセスがシャープに区別できず、「意味」は常に物質的プロセス(電気信号やビット列)の中でしか具現化しないことがわかります。
エージェンシー切断としてのAI設計:何が排除されているのか
バラドの理論は、AIに対する倫理的・批判的分析に有用な概念も提供します。エージェンシャル・リアリズムの観点から見ると、AI開発・運用におけるあらゆる判断は一種の「エージェンシー切断」と見做せます。
どのデータを学習に使用しどのデータを除外するか、モデルの評価基準を何に設定するかといった設計上の判断は、AIシステムが世界をどう切り取りどんな出力(意味)を「現実的」とみなすかを決定する構成的切断です。当然、そこには排除されるもの(データや評価視点)が存在し、その選択如何でバイアスや不公正が生じる可能性があります。
バラドが強調するのは、そうした排除されたものにも現象の生産に構成的役割があるという点です。AIの文脈でも、学習データから排除されたマイノリティの声や、精度向上のため切り捨てられた失敗事例などが、実は最終的なAIの振る舞いに影響を及ぼしている可能性があります。
技術主義への警鐘:AIの客観性神話を問い直す
バラドの議論は、AIの客観性や中立性を過信する技術主義への警鐘ともなります。AIシステムは純粋に自律した判断者ではなく、その出力には常に人間社会の価値観やデータ分布の偏りが織り込まれています。これは物質‐記号的編成の結果なのです。
近年の研究者たちは、AIがしばしば人種やジェンダーのバイアスを再生産すること、またAI産業における搾取的労働(データラベリング作業など)が技術の「客観性」の裏で不可視化されていることを指摘しています。バラドの枠組みはこれらの問題を、「AIという現象を構成する物質的・社会的要素間の力学」として分析する道を開きます。
AIシステム開発において誰の知識や利害が装置(アルゴリズム設計や評価基準)に組み込まれ、誰の視点が切り落とされたのかと問うことは、エージェンシャル・リアリズムの立場から極めて重要です。その問いを通じて、より応答責任性の高いAI――透明で、公平で、関与するすべてのアクターの影響を省みるようなAI――の実現を目指す議論にもつながります。
理論的課題と批判的考察
量子物理学の社会理論への応用をめぐる論争
バラドのエージェンシャル・リアリズムは多方面に影響を与える一方で、いくつかの批判や課題も指摘されています。第一に挙げられるのは、量子物理学の概念を社会理論に適用することへの慎重な姿勢です。
20世紀末にはいわゆる「ソーカル事件」のように、物理学概念の人文社会科学への安易な援用が物議を醸した歴史もありました。その点、バラド自身は理論物理学の専門訓練を受けていることもあって、単純な類推やメタファーに頼らず厳密に議論を進めようとする姿勢を明確にしています。
彼女は「粒子と人間、マイクロとマクロ、科学と社会といった領域を安易に類比するのではなく、量子論が突きつける認識論的・存在論的課題そのものを分析したい」と述べています。それでもなお、バラドの文章は高度に学際的かつ難解であるため、一部の読者には物理学の専門知識が暗黙の前提になっているように映り、理解が容易でないという批判もあります。
物理学者のカルロ・ロヴェッリはバラドの著作を「量子力学に真剣に根ざした思索の好例」であり「ボーアの着想を見事に活用している」と高く評価しています。
フェミニズム内部からの批判:「新しさ」の強調への警戒
フェミニズム内部からの批判として「新しさ」の強調への警戒があります。サラ・アーメッドは、バラドら新しい物質主義の論者が従来のフェミニズム思想を「反生物学主義」だったと過度に単純化し、自らの理論を革新的と位置付ける傾向を批判しました。
彼女は、新たな理論的潮流を「創設する」という身振りが、それ以前のフェミニズムの豊かな蓄積を切り捨ててしまう危険に注意を促しています。これは、バラドが言語中心のフェミニズム批評を乗り越えるあまり、当時の文脈で精緻に練られていた議論を単純化してしまう可能性を指摘するものです。
この点に関しては、過去の議論との連続性と断絶を慎重に見極め、単に「新しいから優れている」という発想に陥らないことが重要だという示唆があります。
理論の実践への落とし込み:具体策への課題
技術論・AI論への応用における課題として、理論の実践への落とし込みが挙げられます。バラドの議論は概念的には示唆に富み、AIの物質的側面や倫理的含意を考察する上で有用ですが、実際の技術開発者や政策立案者にとっては抽象的すぎるという声もあります。
エージェンシャル・リアリズムは世界観レベルの転換を促すため、具体的に「ではアルゴリズムの設計をどう変えるべきか」「AIガバナンスにどう組み込むか」といった実践知に落とすにはさらなる対話が必要です。もっとも、近年はSTSや批判的AI研究の分野でバラドを援用した分析も増えており、AIと社会の関係性を捉える理論ツールとして徐々に浸透しつつあります。
まとめ:物質と意味の境界で未来を構想する
カレン・バラドのエージェンシャル・リアリズムは、「物質性の再考」を通じて私たちの世界理解に大きな転換を迫る理論です。量子物理学の哲学的含意を汲み取りつつ、フェミニズム理論やポストヒューマニズムを統合した彼女の視座からは、物質と意味、主体と客体は固定の実体ではなく関係から生まれる現象であることが示されました。
そうした洞察は、科学哲学や知識論に新風を吹き込んだだけでなく、現代のテクノロジーであるAIを批判的に捉え直す枠組みも提供しています。エージェンシャル・リアリズムに立てば、AIの「知能」ですら人間・物質・社会のもつれ合いの所産であり、したがってその開発・利用には包括的な責任と思慮が求められるとわかります。
この理論を社会や技術の実践に活かすには、さらなる対話と具体化が必要でしょう。バラド自身が述べるように、重要なのは安易な批判ではなく差異から学ぶ創造的な思考法(回折的思考)であり、そこから未来志向の倫理や科学技術論を構想することです。物質と意味のあいだに横たわる境界を半ばにして出会おうとする彼女の試みは、21世紀における学際的知の地平を切り開く重要なマイルストーンであり、その影響と可能性は今後も広がりを見せるでしょう。
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