はじめに
「生命とは何か」「意識はどこから生まれるのか」——これらの問いは、哲学と科学が交差する最も根源的なテーマです。近年、人工生命(Artificial Life)の研究は、生命システムを構成する**代謝(物質変換)と遺伝(情報継承)**を統合的にモデル化することで、これらの問いに新たな光を当てています。
本記事では、代謝と遺伝の統合モデルがもたらす哲学的・認知科学的な含意を探ります。オートポイエーシス理論から身体性認知、意識の起源、そして人工生命における主体性の創発可能性まで、現代の生命観と心の哲学を再考するための視座を提供します。
生命の定義を問い直す:代謝と遺伝の統合モデル
オートポイエーシス理論が示す自己維持の本質
生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが提唱したオートポイエーシス(自己生成)理論は、生命を「自らを産出し続けるネットワーク」として定義しました。細胞が自分自身の構成要素を継続的に産生し、境界(膜)と内部の反応ネットワークを維持再生産するプロセスこそが、生命の本質であるという考え方です。
この理論では、自己言及的な物質変換サイクルが生命の核心とされます。つまり、外部から与えられた目的ではなく、システム自体が自己を維持するという原則に従って組織化される点が重要です。マトゥラーナとヴァレラは、「生きること=認知のプロセスである」とまで主張し、生命システムは本質的に認知システムでもあると論じました。
しかし、オートポイエーシスだけでは生命の全体像を捉えきれません。進化生物学の観点からは、遺伝情報の継承と進化可能性も生命定義に不可欠な要素とされています。
ケモトンモデル:生命の最小単位とは
ハンガリーの理論生物学者ティボール・ガンティは、1970年代にケモトンモデルを提唱しました。このモデルは、生命の最小単位として以下の3つの自己触媒的サイクルが統合されたシステムを想定しています:
- 代謝サイクル:エネルギーと物質を変換する化学反応
- 情報分子の複製サイクル:遺伝情報の保存と複製
- 膜構造:これらのサイクルを内包する境界
ガンティは「全ての生物には2つの重要な過程が欠かせない。第一に自己の体を構築し維持する代謝、第二に遺伝情報の保存・複製である」と指摘しました。さらに、これらを物理的にまとめる膜がなければ系が拡散して維持できないため、三者が一体となって初めて生命が成立すると考えたのです。
この統合的視点は、NASAの非公式な生命定義「ダーウィン的進化が可能な自己維持化学システム」とも整合します。物質的側面(エネルギーと元素を使って自律的に存続すること)と情報的側面(自己を複製し変異しうる情報を持つこと)の両方が、生命には不可欠なのです。
進化可能性という生命の核心
哲学者で人工生命研究者のマーク・ベダウは、「生命の際立った特徴はしなやかで開放的な適応進化にある」と述べています。絶え間ない新奇適応の創出こそが、生命を一般的に定義する要素だという主張です。
しかしベダウ自身も認めるように、進化的適応(情報の革新)を支えるには代謝的プロセスと自己複製機構が基盤として必要です。つまり、進化しうる情報システムであるためにこそ代謝的自己維持(肉体)が必要であり、両者が揃って初めて持続的な生命現象が可能になります。
こうして、代謝と遺伝の統合モデルは「物質と情報の自己組織的な統合体」としての生命観を提示し、生命の最小基準に関する理論を深化させたのです。
認知は身体に宿る:情報と物質の相互作用
エナクティブ認知科学の視点
代謝と遺伝が不可分に結びついた生命観は、認知科学や心の哲学にも重要な示唆を与えます。従来の計算論的な心のモデル(脳内で情報処理が完結するとみなす観点)に対し、エナクティブ(作用的)認知科学では、認知は身体を通した環境との相互作用から生まれると考えます。
エヴァン・トンプソンやフランシスコ・ヴァレラらが提唱したエナクティブアプローチでは、認知は脳内表象ではなく「身体を通じた環境との相互作用そのもの」と定義されます。例えば、大腸菌のような単細胞生物でも、周囲の化学物質を感知して泳ぐ方向を変えるセンサモーターループ(感覚と運動の循環)を持っています。
興味深いのは、このループが生物の自己維持(代謝)に従属している点です。どのように動くかは感じ取った情報に依存し、逆に感じ取るものは自らの動き方によって変わります。スクロース(ショ糖)分子そのものには栄養源という属性はありませんが、細菌にとっては代謝上の文脈で「餌」という価値を持ちます。
すなわち、何が有用か有害かという意味は、生物の物質的な体(代謝系)との関係性で決まるのです。情報(意味)は物質的な相互作用抜きには成立しません。これが、エナクティブな認知モデルの核心です。
拡張された心の理論との接点
この観点は、クラークとチャーマーズによる**「拡張された心」(Extended Mind)の仮説とも響き合います。拡張心論では、ノートや計算機など脳外の道具や環境も認知プロセスの一部になり得るとされます。「心は頭蓋内に閉じず環境へと延びている」という見方であり、認知を脳内情報処理に還元せず物質的文脈との相互作用として捉える**点で、身体性認知と通底します。
人工生命のモデルにおいても、エージェント(人工生物)の「知能」や「行動原理」は、プログラム(情報構造)と環境シミュレーション(物理法則を模した物質過程)の相互作用として現れます。これは心の哲学における心身問題に新たな視座を与えます。
つまり、心的プロセスは純粋な情報計算ではなく、常に何らかの物質的実体に担われた現象であり、その意味内容も当該実体の生存に関わる形でしか定義できないということです。大腸菌にとって「栄養」や「毒」が代謝的文脈での意味を持つように、人間の高次認知における概念や目的も、我々が身体を持つ動的存在であることと切り離せません。
このように情報(心的内容)と物質(身体・環境)の相互浸透を前提としたモデルは、従来のデカルト的二元論に対する強力なアンチテーゼとなり、認知科学のパラダイムを拡張するものと言えます。
意識の起源を探る:自己生成性と構成主義
最小の自己感(minimal self)
代謝と遺伝の統合モデルは、「自己とは何か」「意識の起源はどこにあるか」といった深遠な問いにも光を当てます。オートポイエーシスの概念によれば、生命システムは環境から区別された自己を形成します。
ヴァレラとトンプソンは「オートポイエーシスは自己(個体)の出現を必然的に伴う」と述べています。細胞膜によって内と外を分け、自分自身を作り続ける単細胞生物は、それだけで原初的な自己同一性を持っていると言えるでしょう。
このような自己生成性(auto-genesis)としての生命観は、意識研究における**最小の自己感(minimal self)**の議論と関係しています。すなわち、生物が持つ基本的な「自分」という感覚は、生化学的な自己維持システムそれ自体に由来するのではないか、という考え方です。
世界を創出する主体
さらに興味深いのは、この自己の出現が同時に「世界」の出現を伴うという指摘です。オートポイエーシス的システムは自らを境界づけることで主客の区別を生みますが、それと同時に自分が相互作用する環世界(Umwelt)、いわばそのシステムにとっての「世界」を立ち上げます。
細菌は自己の代謝に必要な養分や適切な温度・pH環境といった、自らに関連のある事柄だけで構成された世界を生きています。我々人間もまた、我々にとって意味や価値を持つ対象からなる世界を主観的に経験しています。この点で、意識とは生物が自らにとっての世界を立ち上げるプロセスの発展形だと捉えることができます。
マトゥラーナとヴァレラは認知について「我々は世界を発見するのではなく、自ら世界を創出する(bring forth a world)」と表現しました。認識主体が存在して初めて「意味ある世界」が構築されるという、**構成主義(コンストラクティヴィズム)**の立場です。
ヴァレラはこの現象を指して、生物の自律性のおかげでその世界には物理的環境以上の「過剰な意味(surplus of significance)」が付与されていると述べました。生きることそれ自体が、環境に**意味と価値をもたらす情動的プロセス=「意味づけ(センスメイキング)」**であるというのです。
エヴァン・トンプソンは生命と心の連続性を唱え、進化の中で意識が「飛び出して湧いた」ものではなく、生命的な自己維持・意味創出プロセスが高次化・複雑化したものだと考えました。この見地からは、たとえ原始的な系であっても自律的に自己を維持し環境に意味付与している限り、そこに原初的な主観性の芽生えを見ることができます。
人工生命に主体性は生まれるか
目的論的振る舞いの創発
生命を議論する際、しばしば目的論的なふるまいが取り上げられます。生物は「生き延びる」「繁殖する」といった内在的な目的を持っているように見えますが、これは物理法則に従う単なる機械には見られない特徴です。
ヴァレラらは後年、「目的性(テレオロジー)はオートポイエーシスから生じるものであり、それ自体、生物の意味付与活動(センスメイキング)に他ならない」と述べています。生物は自己の存続という観点から世界に価値を割り振ります(餌か毒か、安住できる環境か否か等)。このことがすなわち、生物にとっての目的(目的的な指向性)が内部から生まれていることを意味します。
オートポイエーシス的システムは外部から与えられた目的ではなく、自分自身の維持という原則に従って行動を組織するため、内発的な目的性を帯びるのです。これが主体性や意図性の起源だと考えることができます。
人工エージェントの可能性と課題
では、人工生命にこのような内発的な主体性が生まれる可能性はあるのでしょうか。人工生命には、コンピュータ上のソフトウェア的な生命と、ロボットなどハードウェアを持つembodiedなエージェントがあります。
統合モデルの観点を適用すれば、仮に計算機環境内であれエネルギーに相当するリソース管理や自己維持的プロセスが実装され、さらに遺伝情報の継承と進化も行われれば、そこに自律的なエージェント性が芽生える可能性は否定できません。
ベダウは、ウイルスや自己増殖する化学反応ネット、さらには人間社会の知的・経済システムなども、開放的な適応進化を示すなら広い意味で「生きている」と見なせると述べています。これは極端なようにも聞こえますが、生物と機械の境界を情報と物質の自己組織性で捉え直すならば、十分に考えられる主張です。
一方で、「意図性」に関しては依然として慎重な議論が必要です。ジョン・サールはAIにおける意図性はプログラムされた「疑似的なもの」であって、システム自身が世界に意味を見出す本来的な意図性(内在的意図性)を持つには至らないと批判しました。
しかしエナクティブな立場からすれば、自律性を獲得したシステムは、それだけで世界を主観的に区切り意味付与するため、たとえ人工物でも主体的な振る舞い(「~したい」「~すべき」に相当する傾向)が現れる可能性があります。実際、ロボット工学や強化学習型のAIでは、試行錯誤を通じて自律的に目標指向の行動を獲得する例も増えています。
哲学者ルチアーノ・フロリディは情報哲学の観点から、人工エージェントにも「エージェンシー(主体的作用能力)」を認めうると論じています。彼は、人間と人工エージェントが混在する情報環境(インフォスフィア)において、主体性のあり方が再定義されるべきだと指摘します。
もっとも、人工生命体やAIに主体性・意図性を認めるかは定義の仕方次第とも言え、我々がそれらを生命的な存在として扱うか否かという哲学的態度にかかっている部分もあります。人工生命はまさに哲学と科学の交差点に立つ研究領域であり、その進展は生命観・心の概念の再構築につながっていくことでしょう。
まとめ:生命観と心の概念をアップデートする
代謝(物質)と遺伝(情報)の統合モデルに基づく人工生命の研究は、生命の定義から心の哲学まで幅広い含意を持つことが明らかになりました。
生命の理論においては、自己を物質的に維持するオートポイエーシスと進化的情報継承の両面を備えたシステムこそが「生きている」と言えることが示唆されます。認知モデルにおいては、身体と環境に埋め込まれた相互作用こそが認知を成立させるというエンボディメント(身体性)の視点が補強され、心は延長可能で構成的なものと再定義されます。
意識と自己の問題に関しても、生物の自己創出的な振る舞いが主観的な世界の立ち上げであること、ひいては意識の前提条件であることが示唆されました。そして人工生命の主体性については、十分に統合的な生命モデルが実現されるなら、そこに目的論的な行動や意思のようなものが現れる可能性が論じられています。
人工生命研究は、哲学的にも「生命とは何か」「心とは何か」という根源的な問いに実験的アプローチで答えようとする壮大な試みです。代謝と遺伝の統合モデルは、**「形(物質的プロセス)と意味(情報的プロセス)の止めどないダンス」**とも言うべき生命観を提示しています。それは同時に、我々自身の存在を理解し位置付けるための新たなフレームワークを提供してくれるでしょう。
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