量子もつれが時間と交わる場所
量子エンタングルメントは空間的に離れた粒子間の不思議な相関として知られていますが、近年の理論物理学では「時間」との関わりが注目を集めています。相対論的量子情報理論における時間依存性の問題、時間的非局所性の実験的検証、さらには時空構造そのものをエンタングルメントから構築する試みまで、量子もつれと時間の交差点は現代物理学の最前線です。本記事では、これらの研究領域を体系的に紹介し、量子力学と時空の深い結びつきを探ります。
相対論的量子情報理論における時間とエンタングルメント
エンタングルメントと相対論の整合性
特殊相対性理論では、空間的に離れた出来事の時間順序は観測者の運動状態によって変わり得ます。このため、量子エンタングルメントによる非局所的相関が、どの慣性系から見ても矛盾なく記述できることが求められます。
BeckとLazaroviciは2024年の研究で、空間的に隔たった測定結果の結合確率分布が測定の時間順序に依存しないという「相対論的一貫性条件」を提唱しました。この条件は、異なるローレンツ系で統計予測が一致するために必要であり、ノーシグナリング条件も導出できるとされています。つまり、エンタングルメントの不思議な相関が因果律を破らず相対論と共存するためには、測定の順序によらず同じ統計が得られる必要があるのです。
加速系・重力場でのエンタングルメントの変容
相対論的量子情報理論(RQI)の重要な発見の一つは、エンタングルメントが観測者の運動状態に依存するという点です。Fuentes-SchullerとMannによる2005年の研究「ブラックホールに落ちるアリス」では、片方の粒子を加速系から観測すると、エンタングルメントが劣化することが示されました。
加速運動する観測者にとって、静止系で最大エンタングル状態にあった2粒子は、ウンルー効果により部分的に熱化し、もはや最大には絡み合って見えなくなります。極端な場合、無限大の加速に達すると、可分な状態にまでエンタングルメントが消失することも報告されています。このように、エンタングルメントは絶対的な量ではなく、重力場や加速系では観測者ごとに異なる相対的な性質を持つのです。
時間的エンタングルメントの理論枠組み
通常のエンタングルメントは同時刻における2系の相関ですが、相対論的場の理論では異なる時刻間の量子相関も検討されています。これは「時空上で時間的に離れた領域」間の量子相関であり、場の演算子代数の枠組みで定義されます。
時間的エンタングルメントは、ローレンツ不変性や因果律を損なわないよう、解析接続や正則化などの手法を用いて厳密に扱われます。ホログラフィー(AdS/CFT対応)を応用した時間領域のエンタングルメントエントロピーの定義も試みられており、時空構造に則した量子情報量の導入が進められています。
時間における非局所的効果
Leggett–Garg不等式:時間的Bell不等式
Bellの不等式違反が空間的非局所性を示すように、時間方向にも類似の検証が可能です。Leggett–Garg不等式は、ある物理量を異なる時刻で測定した結果の相関に対し、巨視的実在論と非侵入測定という古典的前提が成り立てば満たすべき不等式です。
量子力学ではこの不等式が破れることが実験的に示されており、ある系が異なる時刻に示す相関も古典的実在論では説明できないことを意味します。Bellの不等式違反が空間的非局所性を示唆するように、Leggett–Garg不等式違反は時間的非局所性、すなわち時間を超えた量子相関の非古典性を示唆します。ここでも鍵を握るのは量子エンタングルメントであり、単一系の時間発展においても重ね合わせの整合性が中心的役割を果たしています。
エンタングルメント・イン・タイム
Rajanは2020年の博士論文で「エンタングルメント・イン・タイム」という概念を定式化しました。これは時を隔てた量子系同士の相互依存性であり、古典系にはありえない強い結合として定義されます。
空間的に離れた粒子のエンタングルメントと同様に、時間的に隔たった状態間にも量子的な結合が考えられるという発想です。たとえば一つの粒子の異なる時刻の状態同士がエンタングルできるのか、といった問いに関連し、量子基礎論の新たな局面を開いています。
遅延選択エンタングルメント交換:過去へのステアリング
時間的非局所性を端的に示す実験プロトコルが、遅延選択エンタングルメント交換です。これはPeresが提案した思考実験で、2012年にMaらが初めて実現しました。
驚くべき点は、2組の粒子対から一旦それぞれの粒子を別々に測定・検出してしまった後で、残りの粒子同士に対するベル状態測定を遅れて行うことで、最初に測定済みでもはや存在しない粒子同士がエンタングルしていたかのような相関が後から現れることです。
具体的には、粒子1と4をアリスとボブがそれぞれ早い時刻に測定し記録します。一方、粒子2と3は光ファイバー遅延線で後続の第三者(ビクター)に送り、アリス・ボブの測定よりも後の時刻にベル状態測定を行います。ビクターがベル測定を選択すると、既に測定済みだった粒子1と4がエンタングル状態にあったと解釈できる相関パターンが現れます。
この実験の核心は、エンタングルメントがあたかも過去に遡って割り当てられる点です。粒子1と4がエンタングル状態だったかどうかの結論は、両者の測定から時間的に遅れて行われたビクターの選択によって初めて確定します。著者らはこれを「量子力学における過去へのステアリング」と表現しており、粒子1と4の性質は未来の測定結果を含むすべての情報が揃って初めて確定するという、時間順序の直感に反する関係性を示しています。
時間的非局所性と因果秩序の曖昧さ
上記のような現象は一見因果律に反するように思えますが、実際には情報の伝播は光速を超えず因果律は保たれています。量子的には相関は生じても因果的な影響は及ばさないためです。
近年では因果秩序が確定しない量子過程も議論されています。Laurie Letertre による研究では、ベル非局所性の実験事実が時間的局所性をも否定している可能性が議論されています。Adlamの指摘によれば、ベルの定理は空間的局所性だけでなく時間的局所性も仮定しており、実験でその不等式が破られるということは両者への疑義を呈します。
特殊相対論の下では、ある慣性系で空間的に同時だった非局所相関も、別の慣性系から見れば時間的な先後関係のある現象に変換できます。したがって「空間的非局所性は許すが時間的非局所性は排除する」といった立場は相対論と両立しない可能性があるという指摘です。このような観点から、量子力学を時間対称的に拡張すると必然的にレトロカウザリティや時間的非局所性が現れるとも論じられています。
エンタングルメントが時空構造に与える理論的インプリケーション
空間構造のエマージェンスとエンタングルメント
最新の理論物理では、時空そのものがより深い量子情報的構造から構築されるという仮説が模索されています。その代表例が「エンタングルメントが空間を織りなす」というアイデアです。
Van Raamsdonkは2010年のエッセイで、古典的に連結な時空が現れるためにはその基礎に量子もつれが不可欠であることを論じました。特に、時空の二領域間のエンタングルメントを徐々に解消していくと、それら二領域は互いに引き離され、繋がりが細くなり、ついには分断することを定量的に示しました。エンタングルメントこそが空間の滑らかな連続性を支える接着剤であり、絡み合いが無くなれば空間も分裂するという示唆です。
ER=EPR:ワームホールと量子もつれの対応
もう一つの有名な提案が、MaldacenaとSusskindによる「ER=EPR」対応です(2013年)。これは「Einstein-Rosen橋(ワームホール)とEPR相関(量子もつれ)は実は同一のもの」という大胆な仮説です。
具体的には、完全にエンタングルしたブラックホールの対を考えると、両者の内部はワームホールで繋がっており、それが量子もつれの幾何学的表現になっているというのです。Maldacenaは「奇妙で不可解な量子もつれという性質が、空間–時間の美しい連続性の背後にある」と述べ、「堅固で信頼できる時空の構造はエンタングルメントという幽霊じみた特徴によって支えられている」と指摘しています。
エンタングルメントもワームホールも一見すると超光速で情報が伝わるように見えますが、どちらも実際には信号の送信はできない点で共通しており、整合的です。この図式では、2つの遠隔ブラックホールが最大にもつれた「EPR状態」にあるとき、空間的に遠く離れていても内部では瞬時にゼロ距離で繋がるワームホールが出現するというわけです。
時空の量子重力的記述への示唆
エンタングルメントと時空構造の関係は、ホログラフィック原理や量子重力の研究に広範なインパクトを及ぼしています。AdS/CFT対応では、境界上の量子もつれのパターンがbulk側の時空ジオメトリに対応するという”It from qubit”的な見解が支持されています。
これにより、量子情報量(相互情報量やエンタングルメントエントロピー)が時空の幾何学的量(面積や体積)と結び付けられるなど、量子もつれを介して時空を再構成する試みが理論的に進められています。究極的なヴィジョンでは、空間だけでなく時間もエンタングルメントから浮かび上がる可能性が模索されています。時間の出現に関してはまだ明確な定説はないものの、もし時空全体が量子的絡み合いから生じるのであれば、時間の流れや因果構造もエンタングルメントの動的変化として理解できるかもしれません。
量子力学における時間の役割と対称性
時間対称性と測定の非対称性
量子力学の根底方程式は形式上時間反転対称です。つまり、微視的なレベルでは過去から未来への進行と未来から過去への進行が対称な記述を持ち得ます。しかし、実際の物理現象では時間の矢すなわち不可逆性が存在します。
その主な原因は測定プロセスです。測定による波動関数の射影や環境とのデコヒーレンスによって、量子系は一方向に状態が収束し、再び元には戻らない振る舞いを示します。このため量子測定はしばしば熱力学的不可逆過程になぞらえられ、時間反転対称性を破るものと考えられています。
近年の研究では、弱測定や量子デバイス上での実験を通じて量子測定における時間の矢を定量化する試みもなされています。たとえば、ある量子状態を弱い測定でわずかに束縛し、その後に逆操作で未測定に戻せるか検証することで、測定過程の時間的非対称性に定量的な指標を与える研究も報告されています。
時間対称的解釈と二重状態ベクトル形式
測定問題に絡んで、Aharonovらは時間対称の量子力学を提唱しました。その代表例が二重状態ベクトル形式(TSVF)です。この解釈では、量子系の状態記述に過去から未来へのベクトルと未来から過去へのベクトルの両方を導入し、測定の事前条件と事後条件の両方から系を記述します。
TSVFでは現在の量子状態は、過去の状態と未来の状態の両方によって決定されると考え、因果律を単純に逆転させるのではなく過去と未来の条件を対等に扱う点に特徴があります。この形式は1964年のAharonov–Bergmann–Lebowitz研究に端を発し、弱値理論の基礎にもなっています。
時間対称的な視点に立つと、量子測定の結果確率も事前選択と事後選択の両条件から導かれる対称的な条件付き確率として再構成されます。興味深いことに、このような時間対称解釈を採用すると量子力学における隠れたレトロカウザルな影響が自然に含まれるため、時間的非局所性の問題にも一つの視点を与えると指摘されています。
まとめ:量子もつれと時間が織りなす未来の物理学
量子エンタングルメントと時間の交差領域では、EPR相関やBell非局所性の時間的側面が議論され、相対論との両立条件や時間上の量子相関の特殊性が探究されています。時間の役割についても、時間対称性と因果構造、測定による時間の矢の発現など根本的問題が研究されてきました。
さらに、量子重力や宇宙論の文脈では、エンタングルメントが時空そのものを形成している可能性が示唆され、ブラックホール物理やホログラフィーにおいて具体的モデルが提案されています。これらの知見は未だ発展途上ですが、量子もつれと時間の関係を解き明かすことは、量子力学の基礎から宇宙の構造まで、一貫した理解を得るための鍵となるでしょう。
量子エンタングルメントは単に粒子間の相関にとどまらず、時空という舞台そのものを支える基盤かもしれません。今後の理論的・実験的進展により、時間の本質と量子もつれの深い結びつきがさらに明らかになることが期待されます。
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