予測符号化理論とは:脳は常に世界を予測している
私たちの脳は、単に外界からの情報を受け取って処理する受動的なシステムではありません。むしろ、脳は常に「次に何が起こるか」を予測し、その予測と実際の感覚入力との差を最小化し続ける能動的なシステムとして機能しています。
この考え方の中核にあるのが、Karl Fristonらによって提唱された予測符号化理論と自由エネルギー原理です。この理論によれば、脳は階層的な生成モデルを内部に持ち、外界と身体の原因を推論し続けています。上位レベルでは抽象的で長期的な仮説(自己、他者、世界の性質)を扱い、下位レベルではより具体的な感覚特徴や運動コマンドを処理します。
予測誤差の最小化は二つの方法で実現されます。一つは知覚の更新(予測モデルを修正する)、もう一つは行為の生成(Active Inference:予測に合うように現実を動かす)です。たとえば、「右手を上げている」という高次の予測があり、実際には上がっていない場合、その予測誤差を最小化するために運動系が駆動され、手が実際に上がるのです。
自由意志は予測処理のどこに位置するのか
予測符号化理論の枠組みで自由意志を考えると、従来の哲学的議論とは異なる視点が見えてきます。
自己モデルと価値の階層構造
予測処理モデルにおいて、自由意志は次のように再解釈できます。まず、自己モデルの階層が、自分の好み、価値、長期的目標、そして「こうありたい」という高次の事前分布を表現します。この自己モデルは環境や身体の状態を観察しながら、どの行為パターン(ポリシー)が予測誤差と期待される驚きを最も減らせるかという形で、行為方針を選択していきます。
意識的に「自分で決めた」と感じる体験は、上位レベルの自己モデルが自分の将来行動を予測し、説明し、整合的に物語化していることから生じると考えられています。この枠組みでは、自由意志は完全な無因・無制約な自由ではなく、自己モデルが形成する価値や目標のもとで、予測誤差を最小化するように行為方針を選ぶ能力として定義されます。
Precision調整と主体性の感覚
特に重要なのがprecision(精度)の概念です。これは予測誤差の重みづけに関わり、注意、確信、意志力といった心的機能と結びついています。「どの予測をどれくらい信用するか」「どの行為可能性にどれだけ重みを置くか」を上位レベルでコントロールする機能が、私たちが感じる「選択の主体性」として解釈されるのです。
この視点は、いわゆる相容れ主義的(compatibilist)な自由意志観に近いものです。完全な決定論と自由意志の対立を超えて、構造化された予測システムの中での選択として自由意志を捉え直します。
予測処理モデルにおける不確実性の役割
量子の議論に入る前に、予測処理そのものがもともと確率論的であることを理解する必要があります。
生成モデルは状態と観測に対して確率分布を持ち、その上で近似ベイズ推論を行います。行為選択も、将来の状態と観測の確率的な予測と、それに伴う期待自由エネルギーに基づいた確率的サンプリングとして記述されます。
この確率性は通常、熱雑音、シナプス伝達のゆらぎ、神経スパイクの確率的発火といった古典的なランダムネスとして扱われます。ここまでの話には、量子力学を持ち込む必然性はありません。しかし、不確実性が予測処理の根幹にあり、その究極の起源を突き詰めていくと、最終的には量子レベルの不確定性にぶつかるという論点が浮上します。
量子的不確定性と脳:物理学的な評価
デコヒーレンスの壁
Max Tegmarkらの古典的な研究では、脳内の関連する物理的自由度(イオン濃度、膜電位、スパイク活動など)は、生理条件下では極めて短時間で量子デコヒーレンスを起こすため、認知に関わるタイムスケールでは事実上「古典的」な確率過程として扱えることが示されています。
デコヒーレンス時間は10⁻¹³〜10⁻²⁰秒オーダーと見積もられており、これはニューロンのダイナミクスのタイムスケール(10⁻³〜10⁻¹秒)より桁違いに短いのです。この結果、Penrose–Hameroffの「量子脳」仮説のように、認知や意識を説明するのに量子コヒーレンスを必須とする必要はほぼないというのが、現在の主流的見解となっています。
それでも消えない量子的基盤
ただし、脳がマクロには古典的確率過程として扱えるとしても、その確率過程の究極的起源が量子レベルの不確定性にあることは避けられません。この点が、自由意志の議論において重要な意味を持ちます。
量子力学は「世界は厳密なラプラス的決定論ではない」という意味で、自由意志の議論に材料を提供します。しかし、「量子的にランダムだから主体的な選択だ」という単純な結論は導けません。これが自由意志との接続における最大の哲学的課題なのです。
予測符号化と量子的不確定性をつなぐ三つの立場
この二つの理論的枠組みをどう結びつけるかについて、三つの異なる立場が考えられます。
立場A:実装無差別論
この立場では、予測符号化や能動推論はアルゴリズム・表象レベルの理論であり、古典物理でも量子物理でも実装可能と考えます。自由意志は自己モデル、価値や目標の階層構造、precisionコントロールといった情報処理構造によって説明され、量子かどうかは本質ではありません。
量子不確定性は予測誤差やサンプリングに寄与するノイズ源の最終起源にすぎず、古典乱数と量子乱数の違いは自由意志の哲学的問題にとって周辺的だと考えます。この立場は、予測処理的なアーキテクチャを持つAIエージェントにも同じ枠組みを適用でき、そのランダムネスが擬似乱数でも真の量子乱数でも、主体的選択の構造自体は変わらないという含意を持ちます。
立場B:弱い量子基盤論
より控えめな主張として、予測処理が確率論的枠組みであり、不確実性が本質的役割を果たしている以上、その最終的な物理的起源として量子的不確定性がある限り、自由意志に関する非決定論的な余地は量子レベルによって保証されていると考える立場です。
ただし、ここから「主体が量子イベントをコントロールしている」という結論は出ません。むしろ、完全決定論を前提とした議論を崩す程度の位置づけです。生成モデルが扱う確率過程のノイズ項を原理的には量子起源のランダムネスとみなし、そのランダム性がポリシー選択の多様性や探索行動に寄与することで、「他の可能な行為も現実的な選択肢として保持された状態」を支えると考えます。
立場C:強い量子エージェンシー論
Penrose–Hameroff型の仮説に近い立場で、意識や自由意志は古典計算では表せない量子重ね合わせやオブジェクティブな波束収縮といった特異な物理過程に依拠すると主張します。したがって、予測符号化やベイズ的推論だけでは原理的に説明不可能な「自由な選択」が存在するとします。
しかし、前述のデコヒーレンスの問題から物理的裏付けは薄く、また哲学的にも、量子的ランダム性が増えたからといってなぜそれが主体的コントロールにつながるのかという難問が残ります。
AIと人間の協調:擬似乱数と量子乱数の思考実験
予測処理アーキテクチャを持つ人工エージェントを考えたとき、興味深い問いが生まれます。行為選択のランダムネスを擬似乱数とした場合と量子乱数にした場合で、私たちの「自由意志」の帰属に差は生じるでしょうか。
実装としてはアルゴリズムは同じで、ノイズ源だけが決定論的な擬似乱数(seed が一意なら再現可能)か、真の量子乱数(原理的に再現不可能)かで異なるシステムです。人間の直観として、後者の方がより自由意志に近いと感じるのか、それとも価値・目標・自己モデルの構造や社会的・倫理的な責任の帰属の方が重要で、ノイズ源の物理的性質はどうでもよいと感じるのか。
この問いは、「自由意志とは何か」という形而上学的問いを、人間の帰属実践や協調行動の観点から問い直す研究になる可能性を秘めています。
Marr の三層理論から見る自由意志の位置づけ
David Marrの三層理論(計算論的レベル、表象・アルゴリズム的レベル、実装レベル)の枠組みで整理すると、見取り図が明確になります。
計算論レベルでは、生体や人工エージェントのタスクとして「自己の将来状態を望ましい範囲に保つ」という形で自由意志を再定義できます。アルゴリズム・表象レベルでは、階層的予測処理、自己モデルとポリシーの表現、precisionコントロールが機能します。そして実装レベルでは、神経回路、ノイズ源、その物理基盤(古典または量子)があります。
この整理に基づけば、自由意志は主として計算論とアルゴリズムレベルの概念であり、量子的不確定性は実装レベルに属します。量子的不確定性は「世界が厳密な決定論ではない」という意味で背景条件を与えますが、自由意志の存在や性質を決める決定要因ではありません。むしろ重要なのは、予測処理における不確実性の扱い(エージェントがどの程度prospectを保持できるか)と、自己モデルおよび価値の構造なのです。
まとめ:予測処理理論が示す自由意志の新しい理解
予測符号化理論は、自由意志を神秘的な能力としてではなく、階層的な予測システムにおける情報処理の構造として理解する道を開きます。私たちが感じる「自分で決めている」という主観的体験は、自己モデルが複数の可能な未来を表象し、価値や目標に基づいてその一つを選択するプロセスとして説明できる可能性があります。
量子的不確定性は、世界が完全な決定論ではないという物理的基盤を提供しますが、それ自体が自由意志の本質を構成するわけではありません。むしろ、予測処理における不確実性の維持、自己モデルの複雑さ、価値の階層構造こそが、私たちの選択と主体性を特徴づける要素だと考えられます。
この理解は、人工意識やAIエージェントの設計においても重要な示唆を与えます。真の自由意志を持つAIを作るには、単に量子乱数を使えばよいのではなく、豊かな自己モデル、価値の階層、そして不確実性の中で選択を行う能力を備えたアーキテクチャが必要になるでしょう。
今後の研究では、この理論的枠組みを実証的に検証し、人間とAIの協調における自由意志の帰属がどのように機能するかを明らかにすることが求められます。
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