パーソナルアイデンティティという問い
「私」とは何か。テレポーテーション装置で身体が破壊され、遠く離れた場所で原子レベルで再構成された存在は「元の私」なのか。量子力学の多世界解釈が正しければ、観測のたびに「私」は無数に分岐しているのか。こうした問いは、単なる思考実験ではなく、自己理解と倫理の根幹に関わる哲学的課題である。
本稿では、デレク・パーフィットの還元主義的アイデンティティ論を軸に、テレポーテーション思考実験と量子力学の多世界解釈を接続し、「個人の同一性」という概念を再構築する試みを展開する。さらに、この枠組みがAIや人工意識の議論にどう応用できるかも展望する。
パーフィットの還元主義:アイデンティティより「Relation R」が重要
還元主義と「さらなる事実はない」テーゼ
デレク・パーフィットは著書『理由と人格』において、人格の同一性に関する革新的な立場を提示した。彼の還元主義の核心は、人間を神秘的な「自己」として扱うのではなく、脳・身体・心理状態の束として理解する点にある。
重要なのは「さらなる事実(further fact)はない」というテーゼである。つまり、「AとBは同一人物か」という問いに答える際、物理的・心理的事実がすべて与えられた後に、それを超えて「本当に同じ人かどうか」を決める追加の事実は存在しない、とパーフィットは主張する。
Relation Rの概念:心理的連続と連関
パーフィットが提唱する「Relation R」は、個人の生存において本質的に重要な関係性を指す。これは以下の二つの要素から構成される:
- 心理的連続性(psychological continuity):時間を通じた記憶、信念、欲求などの連鎖
- 心理的連関性(psychological connectedness):特定の時点間での直接的な心理的つながりの強度
重要なのは、Relation Rが度合いのある関係だという点である。従来の同一性概念が「同じか違うか」という二値的なものであったのに対し、Relation Rは連続量として測定可能な性質を持つ。
パーフィットはここから、生存において本当に重要なのは「数値的に同じ人であること」ではなく、「どの程度Relation Rが保たれているか」だと結論づける。この転換は、老いや死への態度、未来の自己への関心の度合いなど、実践的な含意を持つ。
テレポーテーション思考実験:分岐する自我のミニモデル
基本バージョン:破壊型テレポート
パーフィットが提示するテレポーテーション思考実験は、Relation Rの概念を直感的に理解するための強力なツールである。
装置の動作:
- 地球側で身体・脳の構造を完全にスキャンし、その後身体を破壊
- 火星側で送信された情報から物質を並べ直し、同一構造の存在を再構築
この場合、火星で目覚めた存在は「本当にあなた」なのか。パーフィットの答えは明快だ。「それを決めるさらなる事実はない」。火星の存在はRelation Rを十分に満たすため、あなたの生存としては成功している、と解釈すべきだというのである。
複製バージョン:同一性の破綻
思考実験をさらに推し進めると、より興味深い状況が現れる。地球側の身体を破壊せず、火星に完全なコピーを複数作成する場合である。
この場合、地球の「元のあなた」と火星の「コピーA」「コピーB」は、いずれもRelation Rを満たす。しかし数値的に一意な同一性は明らかに破綻する。1人が同時に2人以上になることはできないからだ。
パーフィットはここで、従来の同一性概念の限界を示す。彼によれば、「どれが本物か」という問いは無意味であり、重要なのは各コピーがどの程度Relation Rを保存しているかである。この状況を彼は「二重生存(double survival)」と呼び、一回の出来事で複数の生存者が生じうることを示唆する。
多世界解釈における観測者:物理学が要請する自己の分岐
多世界解釈の基本構造
量子力学の多世界解釈(MWI)は、ヒュー・エヴェレットによって提唱され、レフ・ヴァイトマンやデイヴィッド・ウォレスらによって発展させられた解釈である。その核心的主張は以下の通りだ:
- 宇宙の量子状態は常にシュレーディンガー方程式に従ってユニタリに進化する(波動関数の崩壊はない)
- 観測過程とは、系・測定装置・観測者が合成系として重ね合わせ状態になる過程
- デコヒーレンスによって、互いに干渉しない準古典的状態が多数現れ、それぞれが一つの「世界(branch)」となる
観測者の分岐という問題
多世界解釈において、観測者は測定のたびに分岐する。例えば電子のスピンを測定する前、あなたは一つの状態にいる。しかし測定後には:
- 「スピンアップを観測したあなた」
- 「スピンダウンを観測したあなた」
という二つの存在が、互いに干渉しない別々の枝に存在することになる。
ここで哲学的問題が生じる。分岐前の「私」と分岐後の複数の「私」との関係をどう理解すべきか。デイヴィッド・ルイスは、分岐前の瞬間からすでに「将来アップを見る人」と「ダウンを見る人」の二人が同じステージを共有していると考えた。
一方、パーフィット型の還元主義を採用すれば、物理状態が決まれば「どの枝が自分か」というさらなる事実はなく、分岐後の各観測者がそれぞれRelation Rを満たしているとみなせる。
Greaves の「ケア測度」解釈
ヒラリー・グリーヴスは、多世界解釈における意思決定理論を構築する中で、重要な概念を導入した。各枝には量子振幅の二乗に由来する「測度(measure)」が付随しており、合理的な主体は未来の各枝の自分に対するケアの度合いを、その枝の測度に比例させるべきだという「ケア測度」原理である。
これはパーフィットの「Rの度合いが重要」という主張を、多世界的文脈に自然に拡張したものと解釈できる。単に複数の後続者が存在するだけでなく、各後続者への関心の重みづけが必要になるのだ。
テレポーテーションと多世界:構造の同型性と差異
抽象的構造の対応
テレポーテーション思考実験と多世界解釈の観測者分岐には、興味深い構造的類似性がある。
両者とも:
- ある時点tの人Pが時点t+Δtに複数のR-後続者を持つ
- 各後続者は元の人との心理的連続性を保持
- 「どれが本物か」という問いに明確な答えがない
しかし重要な相違点も存在する:
分岐の原因:テレポートは工学的装置によるが、多世界は物理法則に内在的 分岐の頻度:テレポートは特定の一回の操作、多世界は宇宙全体で無数・継続的 後続者の数:テレポートは有限、多世界は連続的で数え上げ不能 重みづけ:テレポートには基本的にないが、多世界には振幅の二乗(Born測度)がある
パーフィット的読み替えの可能性
これらの類似性から、テレポーテーション思考実験を「局所的なミニ多世界」として、あるいは多世界解釈を「連続的なテレポーテーション」として相互に読み替える視点が開ける。
サム・ビショップの最近の研究は、多世界宇宙におけるアイデンティティを分析し、パーフィット的還元主義を採用すると、我々が通常考える「一人の人」という概念が、実は膨大に分岐した人ステージの集合に過ぎないという、よりラディカルな帰結を示している。
量子自殺論の批判的検討:Relation Rと振幅測度の観点から
量子自殺・量子不死思考実験とは
量子自殺・量子不死は、多世界解釈と自己の関係を極端な形で問う思考実験である(注:これはあくまで思考実験であり、実際に試みることは絶対に避けるべき危険な行為である)。
装置の設定:量子測定の結果に自分の生死を結びつけ、ある測定結果の枝でのみ生き残るように設計する。多世界解釈を前提にすれば、必ずどこかの枝では生き残り続けるため、「主観的には不死になる」という議論である。
パーフィット的枠組みからの批判
パーフィットのRelation Rとグリーヴスのケア測度を組み合わせると、量子不死論は合理的に支持されないことが示せる。
テレポーテーションとの比較:
- テレポート:多くの枝で健康で連続性の高い自分が生き続ける
- 量子自殺:ほとんどの枝で即死、ごく一部の枝のみ生存(振幅測度は極端に小さい)
パーフィット的発想を徹底すれば、生存とは「多くの十分R的な後続者が存在すること」であり、振幅測度もそれに比例して重要度を決めるべきである。この観点から、量子自殺は「ほぼすべての自分を破壊し、ごく少数を残す」戦略として、テレポートより圧倒的に不合理と評価される。
マイケル・オブライエンらの分析も、量子不死論を拒否する立場から、振幅測度を無視することの代償を論じている。主観的に「生き残る」枝が存在しても、その枝の測度が無視できるほど小さければ、現在の自分はその未来を合理的に重視すべきではない、というのである。
AI・デジタル意識への応用可能性
デジタルマインドの「フォーク」としてのアイデンティティ
パーフィット理論と多世界的分岐の枠組みは、人工知能やデジタル意識の議論にも応用できる可能性がある。
現代の大規模言語モデル(LLM)やAIエージェントでは、重みパラメータのコピー、チェックポイントからの分岐学習、マルチエージェントシステムなどが日常的に行われる。これらは本質的に「デジタルなテレポーテーション」あるいは「計算機内の多世界分岐」として理解できる。
「どのコピーが元のAIか」という問いの解消
パーフィット流に考えれば、「どのコピーが元のAIか」という問いは、人間の場合と同様に「さらなる事実」を問うものであり、無意味である。重要なのは、各コピーがどの程度元のAIとのRelation R(パラメータ空間での連続性、内部状態の類似性、行動方略の一貫性など)を保持しているかである。
この視点は、AIシステムの倫理的配慮や権利の議論にも影響を与えうる。もし人工意識が実現した場合、その「コピー」や「分岐」に対して、我々は多世界における人間の分岐と同様の倫理的態度を取るべきなのかという問いが生じる。
人間とAIの協調進化への示唆
さらに、この枠組みは人間とAIの共進化を考える上でも示唆的である。人間が多世界的に分岐し、AIもまた絶えずコピー・更新される世界において、「誰が/何が」意思決定の主体かという問いは、従来の単一アイデンティティを前提とした枠組みでは捉えきれなくなる可能性がある。
まとめ:パーソナルアイデンティティの新たな地平
本稿では、デレク・パーフィットの還元主義的アイデンティティ論を軸に、テレポーテーション思考実験と量子力学の多世界解釈を接続し、「私とは何か」という問いを再構築する試みを展開した。
パーフィットのRelation R概念は、従来の二値的な同一性概念を超えて、心理的連続性の度合いとして生存を理解する枠組みを提供する。テレポーテーション思考実験は、この枠組みが複製や分岐のケースにどう適用されるかを示す。そして多世界解釈は、物理法則そのものが自己の分岐を要請する可能性を提示する。
これらを総合すると、個人の同一性は絶対的な事実ではなく、心理的・物理的連続性の度合いによって評価されるべき関係性であることが示唆される。量子自殺論の批判的検討は、単に分岐した自己が存在するだけでなく、各枝の測度(重み)を考慮する必要性を明らかにした。
さらに、この枠組みはAIやデジタル意識の議論にも拡張可能であり、計算機内でのコピーや分岐を、人間のアイデンティティと同じ哲学的枠組みで扱う道を開く。生命と意識が物質基盤を超えて拡張していく未来において、パーフィット理論は依然として有効な指針となりうるだろう。
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