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オートポイエーシス理論が拓く認知科学の新地平:生命と心の連続性を問い直す

はじめに:生命システムとしての認知という視座

認知科学は長らく、心を情報処理装置として捉える計算論的パラダイムが主流でした。しかし1970年代にマトゥラーナとヴァレラが提唱したオートポイエーシス理論は、「生きること=認知すること」という大胆な主張を通じて、この前提に根本的な問いを投げかけました。オートポイエーシスとは「自己を生み出すこと」を意味し、生物が自身の構成要素を絶えず再生産し境界を維持する循環的プロセスを指します。

この理論は単なる生物学モデルに留まらず、現代認知科学、特にエナクティブ・アプローチや動的システム理論に深い影響を与えています。本記事では、オートポイエーシス理論がどのように認知科学の理論的基盤を形成し、身体性や自律性を重視する現代の認知研究にどう展開されているかを探ります。さらに自由エネルギー原理などの代替モデルとの関係や、最新の批判的議論にも触れながら、生命と心の連続性という視点がもたらす可能性を検討します。

エナクティブ認知科学における自律性の再定義

エナクティブ認知科学は、認知を主体が環境との相互作用を通じて世界を構成する過程と捉えます。この立場の理論的基盤には、オートポイエーシス理論が深く組み込まれています。ヴァレラ、トンプソン、ロシュによる『The Embodied Mind』は、認知を「エナクション(enaction)」すなわち生体の活動による意味の世界の立ち上げと定義しました。

オートノミーという核心概念

エナクティブ派が重視する「自律性(autonomy)」概念は、オートポイエーシス理論に直接ルーツを持ちます。ここでの自律性とは、システムが操作的に閉鎖し、かつ危うさを抱えた状態を指します。操作的閉鎖とはシステム内の要素関係が自己完結的な循環を成すことであり、危うさとは維持活動を止めれば崩壊する非平衡状態のことです。

単細胞生物を例にとれば、細胞膜に囲まれた代謝ネットワークが循環構造を持ち、常に物質エネルギーを取り入れて内部秩序を維持しなければ死に至ります。このような自己生成的かつ能動的に自己を維持する身体が、認知主体の最小単位とされるのです。トンプソンらは、身体の「自己個体化」能力こそが心の成立条件だと述べ、身体が単なる入出力装置以上の主体になる理由をオートポイエーシスに求めました。

適応性と意味付与への展開

オリジナルのオートポイエーシス概念は自己維持構造に焦点を当てていましたが、現代のエナクティブ理論では適応性(adaptivity)と意味付与(sense-making)が追加されています。ディ・パオロらは、オートポイエーシスだけでは生物が環境変化にどう対処するか説明できないとして、適応的可塑性を提唱しました。

適応性とは、システムが自己存続に関わる変化を検知し、内部状態を調節して生存に有利な方向へ自己を変化させる能力です。例えば細胞が栄養欠乏を検知して代謝経路を変更する振る舞いは、適応性の表れといえます。この適応性が生物に目的論的性質を与え、環世界を主体にとって意味あるものとして構築する能力、すなわちセンスメイキングへとつながります。

センスメイキングとは、オートポイエーシス的主体が自らの生存に関わる形で環境に意味を付与するプロセスです。環境は単なる物理的刺激の集まりではなく、「食べ物」「危険なもの」など自分にとって意味ある対象の集合として経験されます。このような価値や意味の生成を認知の本質と見做す点で、エナクティブ・アプローチは古典的な情報処理アプローチと一線を画しています。

動的システム理論との架橋:自己組織化する認知

認知科学における動的システム理論は、認知過程を時間発展する連続的状態変化として捉えます。脳や身体と環境との相互作用を非線形力学的な自己組織として理解するこのアプローチにおいても、オートポイエーシスの概念は重要な位置を占めています。

操作的閉鎖性の動的定式化

オートポイエーシスの自己生成や自己指示的閉鎖といった概念は、動的モデルでも表現可能です。システムの状態変数同士が相互に因果ループを形成していれば、「操作的に閉鎖」した系といえます。この組織的閉鎖は、システムが外界から独立して存在できることを意味するのではなく、内部の振る舞いが自己準拠的なルールに従うことを示します。

生物は外界からエネルギーや物質を取り入れつつも、内部では自律した化学反応ネットワークが進行しており、外界の撹乱に対しては自分自身の内部構造の変化で応答します。動的システムとして表現すれば、環境変化はパラメータや外部入力として作用しますが、その効果はシステム固有の内部状態の力学によって決定されます。システムは環境から直接指令を受けず、環境は単に擾乱として作用するだけで、その応答の仕方はシステム自身のダイナミクスに内在するのです。

構造的結合による共進化

操作的に閉鎖したシステムは環境から孤立しているわけではなく、むしろ環境との構造的結合によって動的に共進化します。ヴァレラは「生物システムは組織的には閉じているが、エネルギー・物質的には開かれている」と述べましたが、動的システムの観点でも同様です。内部動力学が閉鎖的で一貫しているからこそ、環境との間で再現性のある相互作用パターンが生じます。

環境からの攪乱に対してシステムは自律的に反応し、その結果環境も変化して次の入力が決まる――この相互適合の過程が、エージェントと環境の共役したダイナミクスとしてモデル化されます。動的システム理論では、この構造的結合はセンサモーターループなどとして具体化され、エージェント—環境系全体が一つの結合した動的システムになります。

近年の研究では、自己維持回路を持つロボットのシミュレーションや、自律的な内部モデルを持つ動的神経回路網の研究が進められています。これらのモデルでは、ロボットが内部で自己維持指標を計算しつつ環境に適応行動を示すなど、オートポイエーシス的原理を応用した動的認知アーキテクチャが模索されています。

4E認知科学とメタ理論的統合

オートポイエーシス理論は、4E認知科学(Embodied, Embedded, Enactive, Extended)における理論的基盤としても機能しています。

身体性と環境埋め込みの基盤

身体性(Embodied)認知の観点から、オートポイエーシス理論は「身体=自己を維持する有機体」という定義を与えました。これにより認知科学は、身体が脳の道具ではなく、それ自体が意味生成の主体であるという理解に至りました。環境埋め込み(Embedded)認知の観点からも、オートポイエーシスの構造的結合概念が、認知システムが環境との歴史的相互作用の中で規定されることを示唆しています。

拡張認知との緊張と統合

一方、拡張(Extended)認知との関係はやや複雑です。クラークらが主張する拡張認知論では、認知プロセスが身体の境界外(ノートや道具など)にまで広がりうるとされます。しかしオートポイエーシス理論の立場では、認知主体の境界はその自己生成的な身体の境界と一致すると考えられます。

もっとも、近年では両者を架橋する試みも現れています。建築分野では「オートポイエーシス+拡張認知」による自律的環境システムのデザインが論じられ、心理療法理論では「絡み合ったオートポイエーシス(entangled autopoiesis)」という枠組みが提案されています。人間の心的プロセスが文化・社会・技術と絡み合った形でオートポイエーシスを再定義する動きも進行中です。

現象学的基盤との接続

エナクティブ認知科学は、フランス現象学や仏教哲学の影響を強く受けています。オートポイエーシス理論は一見純粋な生物学モデルですが、その背景には「生きた主体の一人称的経験を科学に取り込む」という野心がありました。ヴァレラが後に提唱した神経現象学は、主観的体験と脳・身体の動的状態を対応させる研究プログラムです。

フッサールやメルロー=ポンティの現象学では、身体的存在が世界を意味づける様子が論じられました。オートポイエーシス理論は、身体的存在とは自らを維持し世界に関与する過程そのものであるという形で、この現象学的アイデアを生物学的に裏付けたと捉えられます。特にハンス・ヨーナスの生命哲学からの影響が指摘されており、オートポイエーシス的生物は世界に対して原初的な関心(concern)を持つと論じられます。

最新の理論的展開と批判的議論

2010年代後半以降、オートポイエーシス理論とエナクティブ認知科学の接続については、さらなる精緻化と批判が進んでいます。

第二世代エナクティヴィズムの展開

近年の理論的深化として、適応性やエージェンシー概念の導入に加え、発展的オートポイエーシス観とも言うべき動きが見られます。フローゼらの研究によれば、オートポイエーシスの元々の定義には隠れた複雑性があり、それを「危うさ」「適応性」「エージェンシー」という操作的概念に展開できるとされます。

ディ・パオロやトンプソンらは、オートポイエーシス単独では認知の全てを説明するには不十分であり「必要だが十分ではない」と位置付けました。そこで能動的な調整機構を仮定し、「生命=認知」連続体の中で高次の心的機能がどう出現するかを説明しようとしています。

社会的認知の分野では、ハンネ・デ・イェーガーとディ・パオロによる「参与的意味形成(participatory sense-making)」論が提案されています。複数のオートポイエーシス的主体が相互にカップリングすることで新たな社会的オートポイエーシスが生じるという提案です。このようなエナクティブ理論の拡張版は、しばしば「第二世代エナクティヴィズム」とも呼ばれています。

認知の定義を巡る論争

オートポイエーシス理論に基づくエナクティブ認知観には、いくつかの批判も提起されています。その一つは「認知の定義が広すぎる」という指摘です。マトゥラーナの「生命=認知」は、極論すれば細菌も粘菌も全て「認知」を持つと言っています。デネットなど一部の哲学者は、「認知をあまりに拡張しすぎると概念が空疎になる」と批判しました。

またフットとミンのラディカル・エナクティヴィズムは、オートポイエーシスに依拠する従来のエナクティヴィズムに対し、「基本的心的状態に意味内容は不要である」と主張して論戦を挑みました。彼らの批判は、オートポイエーシス理論が暗黙のうちに表象主義的前提を残しているというものです。「生物が環境を意味づける」と言うとき、その意味の担い手が結局何らかの表象内容のように扱われてしまうのではないか、という指摘です。

さらに目的論の導入を巡る議論もあります。エナクティブ派は生物に内在的目的(自己維持という目標)を認めますが、これを「自然化されていない心的因果の導入だ」と懸念する向きもあります。伝統的認知科学側からは「内部に記号的表象を仮定しなくて本当に知覚・認識を説明できるのか」という根本的疑問も呈されています。

自由エネルギー原理との対話と統合の可能性

近年注目を集める代替的フレームワークとして、カール・フリストンによる自由エネルギー原理(Free Energy Principle; FEP)があります。この理論は、生物システムは統計的な予測誤差を最小化することで自己を維持するという汎理論です。

計算論とエナクティブ論の架橋

自由エネルギー原理は一見するとエナクティブ的見解と正反対で、脳が環境の生成モデルを内部に構築しベイズ推論によって認知するとみなす計算論的アプローチです。しかしフリストン自身や一部の哲学者は、自由エネルギー原理は「オートポイエーシスの数理的定式化」に他ならないとも述べています。

近年の研究では、「オートポイエーシスは自由エネルギー原理の特殊ケースであり、FEPの方が現代の認知科学フレームワークとして優れている」と主張するものもあります。コルバックの研究によれば、自由エネルギー最小化を行うシステムが生物であるため、FEPは生物のオートノミーを内包しているとされます。さらに「オートポイエーシスで想定される自己組織も、FEPの枠内でバイアス(事前分布)として実装できる」とし、「FEPは計算論とエナクティブ論の統合フレームとなりうる」と提案されています。

緊張関係と今後の展望

ただしエナクティブ派の中にはこれに懐疑的な者もおり、「FEPは結局内部モデルと表象を前提としているため、根本哲学が違う」として緊張関係にあるとの指摘もあります。近年の文献には「エナクションとFEPの緊張関係」を論じたものや、逆に両者の統合を図るものが多数登場しており、活発な対話が行われています。

その他の代替モデルとしては、ジェームズ・ギブソンの生態学的知覚論との比較があります。ギブソンの理論はエナクティブ派に影響を与えましたが、オートポイエーシスが強調する主体の内部過程にはあえて踏み込まず、環境側のアフォーダンスを重視する点でアプローチが異なります。

まとめ:生命と心の地平を問い続ける

オートポイエーシス理論は、1970年代に提唱されて以来、単なる生物学説に留まらず認知科学や哲学に深い影響を与えてきました。エナクティブ認知科学と動的システム論的アプローチにおいて、「生命と認知の地平を連続させる」という理論的枠組みを提供し、身体性や自律性を重視する現代の認知研究に革新的な視点をもたらしました。

21世紀に入り、認知科学は脳スキャン技術やAIの発展によって新たな局面を迎えていますが、その中でもオートポイエーシス的な視点の重要性は増しているように思われます。近年の認知ロボティクスでは、環境中で自己修復・エネルギー補給を行いながらタスクを学習する自己維持型ロボットの研究が進められています。意識の科学においても、生命モデルに基づく意識の定義など、生命と心を一体で捉える発想が増えてきました。

とはいえ、オートポイエーシス理論およびエナクティブ認知科学は依然として主流派に対する挑戦的パラダイムであり、解決すべき理論課題も残っています。今後の展望としては、自由エネルギー原理のように数理モデルと言語を共有することで、生命的自律性と計算論的予測処理を両立させる路線が考えられます。別の可能性として、現象学や東洋思想との統合により、人間の一人称経験を包含した包括的科学を構想する路線もあります。

自律走行車や対話型AIが台頭する中、「それらは本当に認知していると言えるのか? 生きていないのに?」という問いは、まさにオートポイエーシスの観点から投げかけられるものです。その答えを探るためにも、オートポイエーシス理論と現代認知科学の対話を深化させ、生命と心の本質に迫る探究を続けていく必要があるでしょう。

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