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自由エネルギー原理は「反証不能なトートロジー」か?実証研究が示す検証可能性

はじめに:なぜ自由エネルギー原理は「検証不能」と批判されるのか

自由エネルギー原理(Free Energy Principle, FEP)は、脳が外界からの感覚入力を予測し、その誤差を最小化することで適応的に振る舞うという理論的枠組みである。生物が生存を維持するために「驚き(surprise)」を抑える方向へ自己組織化するという考え方は、神経科学から認知科学、さらには人工知能研究まで幅広い分野で注目を集めている。

しかし同時に、FEPはその抽象性と汎用性ゆえに強い批判にもさらされてきた。特に問題視されるのが「反証可能性の欠如」である。理論があまりに柔軟で何でも説明できるため、科学理論として必要な「間違いを示せる条件」が曖昧になるのではないかという懸念だ。Bowers & Davis(2012)やWilliams(2018)らは、ベイズ理論モデル全般がパラメータ調整に依存しすぎて反証困難になる危険性を指摘し、Gershman(2019)も「FEPは固定的な予測命題を持たず、仮定が恣意的に変わり得る」と警告している。

こうした批判は科学哲学的にも重要な論点である。カール・ポパーが提唱した反証可能性は科学理論の基準とされており、どんな観察結果が得られても理論を修正できてしまうならば、それは科学というより信念体系に近づいてしまう。では、FEPは本当に「トートロジー」なのだろうか。それとも実証的検証に耐えうる科学理論として成立しているのか。

反証可能性を担保する条件:原理と過程理論の区別

FEP擁護側の論者は、批判の多くが「原理レベルの一般性」と「個別モデルの検証可能性」を混同していると反論する。Hohwy(2021)は、FEPをあくまで自己組織化システムの存在条件を示す概念的枠組みとして位置づけるべきだと主張する。つまりFEP自体は「生物がどのように振る舞うべきか」という規範原理であり、具体的な予測は各場面で設定される生成モデルや仮定に基づく「過程理論(process theory)」から導かれるという整理である。

Gershman(2019)も同様に、FEPそのものは固定的な主張を持たないが、それは欠陥ではなく理論の役割分担の問題だと指摘する。重要なのは、個別の実験や現象を説明する際に「どのような生成モデルを仮定するか」「事前分布や精度パラメータをどう設定するか」を明示化することだ。これらの仮定を明確にすれば、そこから導かれる予測は実データと照らし合わせて検証可能になる。

たとえば、視覚刺激の予測可能性が変化したとき、一次視覚野と高次視覚野でどのような活動パターンが生じるかは、予測符号化モデルに基づいて具体的に予測できる。もしその予測が実測データと一致しなければ、モデルの仮定を修正するか、理論的前提を見直す必要が生じる。こうした個別検証の積み重ねによって、FEPの有効性と限界が浮き彫りになるのである。

実証研究1:fMRIによる予測符号化の検証

FEPに基づく最も直接的な予測の一つは、「予測可能な刺激には神経応答が低減する」というものだ。予測符号化理論では、脳は常に感覚入力を予測しており、実際の入力が予測と一致すれば予測誤差が小さくなり、神経活動も抑制されると考える。

Fristonら(2006)は、この予測をfMRIで検証した。被験者にランダムに動くディスクの映像を見せ、一部の条件では動きのパターンを予測可能にし、別の条件では予測不可能にした。結果、予測可能な刺激に対しては一次視覚野(V1)のBOLD信号が顕著に低下し、予測不可能な刺激では増強された。一方、動き情報を統合する二次視覚野(V2)では、予測不可能刺激で応答が増大し、予測可能刺激で抑制される傾向が観察された。

この結果は予測符号化モデルの予測と整合的である。予測可能な刺激では予測誤差が小さいため神経活動が最小化され、予測不可能な刺激では誤差が大きく活動が増強される。階層的処理においても、低次領域と高次領域で異なる役割が反映されることが示された。もしこのパターンが観察されなければ、予測符号化の仮定を修正する必要が生じる。

実証研究2:知覚閾値課題と予測精度の関係

Hesselmannら(2010)は、視覚・聴覚の閾値付近の刺激を用いた知覚課題で、刺激提示前の脳活動パターンを比較した。興味深いことに、刺激を正しく検出できた試行(ヒット)の前には感覚野で高い活動レベルが見られたのに対し、誤検出(偽アラーム)の前には相対的に低い活動であった。

FEP的解釈では、この結果は「予測誤差の精度(信頼性)」の違いを反映している可能性がある。事前活動が高い状態は、感覚入力に対する精度が高く設定されている状態であり、それが正しい知覚につながる。逆に精度が低い状態では、内的予測が優位になり誤検出が生じやすくなる。この視点は、皮質活動が単なる「証拠の量」ではなく「予測誤差の精度」を符号化しているという予測符号化の核心的主張と一致する。

実証研究3:繰返し抑制とミスマッチネガティビティ

繰り返し提示された刺激に対する神経応答の減弱(繰返し抑制)も、FEPの予測と整合的な現象である。同じ顔画像を繰り返し見せると、初回に比べて二回目以降は顔処理野の活動が低下することがfMRIで観察されている。予測符号化理論では、繰り返し刺激は予測されるようになるため予測誤差が減少し、神経応答も低減すると説明される。

同様に、脳波研究で知られるミスマッチネガティビティ(MMN)も予測誤差信号として解釈できる。規則的な音列の中に予測外の音が混入すると、約100〜250ミリ秒後に陰性電位が生じる。これは「予測されない刺激=予測誤差の増大」に対応する神経反応と考えられ、FEPの枠組みで定量的にモデル化されている。

実証研究4:培養神経ネットワークでの自己組織化

より直接的な検証として、培養神経ネットワークを用いた研究も重要である。Isomura & Friston(2018)は、in vitroで培養したニューロンに統計構造を持つ刺激パターンを繰り返し提示し、活動変化を記録した。その結果、経験に伴って神経応答が特定パターンに選択的になる機能的特化が明確に現れ、このパターンがベイズ最適符号化モデルの予測とよく一致した。さらに、学習過程で計算上の自由エネルギーが有意に減少することも確認され、神経活動の変化が自由エネルギー最小化に対応することが実証された。

Isomuraら(2023)の研究では、ラット皮質ニューロン培養系に2つの隠れた信号源を混合した電気刺激を与えた。ネットワークは自発的に2つの信号源を分離して符号化するように自己組織化し、薬理的な興奮性変調はFEP下での事前分布の変化として解釈された。重要なのは、シナプス結合の変化が変分自由エネルギーの低減と定量的に対応し、結合強度が生成モデルのパラメータを符号化することが実験的に確認された点である。

この研究は「変分自由エネルギー最小化が神経結合や応答の自己組織化を定量的に予測する」ことを示しており、FEPの予測的妥当性を実験レベルで検証する強力な証拠となっている。

トートロジー批判への実証的反論

以上の研究群は、FEPが単なる「何でも説明できる柔軟な理論」ではないことを示唆している。各研究において、FEPに基づく具体的な予測が事前に設定され、実測データと照らし合わされている。もし予測が外れれば、モデルの仮定や理論的前提を修正する必要が生じる。

たとえば、もしFristonらの実験で予測可能刺激に対してV1活動が増大していれば、予測符号化モデルの基本的仮定が疑われる。もしIsomuraらの実験で自由エネルギーが増大していれば、FEPの中核的主張が揺らぐ。こうした「想定外の結果」が理論の修正を迫る可能性があることこそ、反証可能性の証左である。

もちろん、個別の予測が外れた場合でも、補助仮説やパラメータ調整によって理論を保護できる余地は残る。しかし、それは他の科学理論でも同様であり、FEPに特有の問題ではない。重要なのは、仮定を明示化し、予測を具体化し、実証的検証を積み重ねることで、理論の適用範囲と限界を明らかにしていく営みである。

残された課題と今後の展望

実証研究の蓄積にもかかわらず、FEPをめぐる課題は多い。第一に、生成モデルや事前分布の設定に恣意性が残る問題がある。マルコフ毛布の境界設定や精度パラメータの値をどう決めるかは、しばしば研究者の判断に委ねられる。これらの仮定の妥当性を独立に検証する手法の確立が求められる。

第二に、ニューロン・シナプスレベルでの実装メカニズムの解明が不十分である。確率分布や自由エネルギーという抽象的概念が、具体的な生理学的プロセスとどう対応するのか、さらなる橋渡し研究が必要だ。イオンチャネルの動態、シナプス可塑性の分子機構、神経回路の結合パターンといったミクロレベルの知見と、FEPのマクロレベルの記述を接続する理論的・実験的努力が求められる。

第三に、「暗い部屋問題」のような概念的批判への対処も継続課題である。FEPに従えば生物は驚きを避けるため暗い部屋に閉じこもるべきだという批判に対し、最近の議論では複雑性のバランス(秩序と混沌の均衡)を維持する動的平衡状態を目指すという解釈が提案されている。しかし、こうした修正がアドホックな理論保護なのか、本質的な理論的洗練なのかは、さらなる検証が必要だろう。

最後に、代替理論との比較検証が重要である。FEPと競合する他の理論的枠組み(たとえば強化学習モデル、情報理論的アプローチ、古典的な信号検出理論など)と明示的に予測を対比させ、どの理論がより広範なデータを説明できるかを評価する必要がある。単一の理論だけを検証するのではなく、複数の理論的候補の中での相対的優位性を示すことが、科学的妥当性の強化につながる。

まとめ:検証可能性の構築に向けて

自由エネルギー原理が「反証不能なトートロジー」であるという批判は、理論の抽象性を考えれば理解できる懸念である。しかし、fMRI、脳波、培養神経ネットワークといった多様な実証研究は、FEPに基づく具体的予測が実験的検証に耐えうることを示している。

重要なのは、FEP自体を一枚岩の教義として扱うのではなく、検証可能な個別の過程理論の集合として捉えることだ。各研究で仮定を明示化し、予測を具体化し、データとの照合を繰り返すことで、理論の有効性と限界が次第に明らかになっていく。この科学的営みの積み重ねこそが、FEPの検証可能性を担保する道筋である。

今後も、理論的洗練と実証的検証の往復を通じて、ベイズ脳仮説の科学的基盤が強化されることが期待される。批判と擁護の建設的対話が、最終的にはより堅牢で有用な脳理論の構築につながるだろう。

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